「ここをおして」をクリックされてください。
「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)
東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月8日(月曜日)
夏がおわり「秋」になりました。
「夏」からかわり。
そぞろにかすかに「秋」のかおりが。
ただよいはじめています。
早朝にはせみの鳴き声が今日も。
聞こえました。わずかでした。
(あぶらせみ)
暗い早朝に「こおろぎ」の声が聞こえます。
次第に「こおろぎ」の声は多くなってきました。
まだ暗い早朝の朝もやからは。
「秋のおとずれ」の「大気」が。
かすみのような「香り」でしのびよる
気配がわかります。
もう「秋」です。
五月(さつき)がおわり。
六月がおわり。
そして「7月」
「7月」も終わりました。
「8月」も終わりました。
いよいよ「秋」の「9月」です。
はやいものです。
はやいものです。
9月はじめの夏から秋には
「特有の独特の気配と香り」が
感じられるようです。
不思議な感しが致します。
木々は「夏のおわり」までの準備をおわり。
これからの「秋への実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。
今早朝は肌寒い」です。
今年は「寒い」です。
街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏に青葉の「木」に
かわりました。
そしていま。
「秋の葉」の木に。
さらにうつろいてかわろうと
しています。
「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」です。
「9月」=「実りの秋」です。
木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども去年よりは鳴き声は多かった
ようにおもえます。
秋の気配に加えて。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。
山椒(さんしょう)の木の芽が
若葉にすくすくとそだち。
若枝も秋天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「秋の陽」をあびて。
山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。
山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。
さんしょう木
萌黄(もえぎ)鮮やかなり芽葉(めは)
みどり葉わか葉いずる花のごと
夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
「秋」なりてたゆまずとまらず
あゆみそだちて
幹こそ天たかくそだちたり
いざいまこそは
秋空(そら)にもえたたむ
金色(こがね)の炎
さんしょう木
けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。
「小さな夏みつけた」から
しだいに「大きな夏みつけた」
「大きな大きな夏みつけた」から。
そして「小さい秋」みつけた・は。
ちょっと「安心する気」が致します。
もう「秋」です。
-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------
平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
-------------------------------
平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
-------------------------------
GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
-------------------------------
平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)
は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>
平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------
「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は終わりました。
-------------------------------
9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------
私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
-------------------------------
2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
------------------------------
成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
------------------------------
学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
-------------------------------
「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。
「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。
人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。
昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。
難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。
私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。
「良くなられていく」笑顔に。
心より感謝・感謝。
「今日は何の日」は
私の「大好き」な大天才作曲家である。
1841年 - アントニン・ドヴォルザーク、
作曲家(+ 1904年)
の生誕日です。
(アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク
の名はチェコ語の発音に近いアントニーン・
レオポルト・ドヴォジャークと表記される
こともあります。)
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク
(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák
[ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk]
発音(ヘルプ・ファイル)、1841年9月8日
ミュールハウゼン・アン・デア・モルダウ
(現チェコ・ネラホゼヴェス Nelahozeves) -
1904年5月1日)は、チェコの作曲家です。
ブラームスに才能を見いだされ
「スラブ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。
ベドルジハ・スメタナとともに。
ボヘミア楽派と呼ばれます。
その後、アメリカに渡り。
音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら。
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収して。
自身の作品に反映させています。
代表作に交響曲第9番『新世界より』
この分野の代表作でもある
チェロ協奏曲『アメリカ』の愛称で知られる
弦楽四重奏曲第12番などがあります。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは
これらの作品を通して。
1・
チェコ国民楽派を代表する作曲家であり
2.
後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず
3・
クラシック音楽史上屈指の人気作曲家
でもあるといえます。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの音楽史上の位置づけ
スタヴォフスケー劇場ドヴォルザークは
西洋音楽史上は
後期ロマン派に位置する作曲家になります。
この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、
あるいはフランスといった
音楽先進地域の外で国民楽派が勃興致しました。
ドヴォルザークは、1歳年上の
ピョートル・チャイコフスキー(ロシア)や。
2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)
らとともに。
同楽派を代表する存在です。
同時にベドルジハ・スメタナとともに。
チェコ国民楽派あるいは
ボヘミア楽派の創始者の一人として
ドヴォルザークは
レオシュ・ヤナーチェクを初めとする
以後の作曲家たちに大きな影響を与えました。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは
ワーグナー派対ブラームス派の
対立が明らかとなった時代に学習期を迎えています。
1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、
プラハでワーグナーのオペラを常時上演していた
ドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)
に足繁く通いました。
1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第一作には、
ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に。
ワーグナーの影響が明らかに見て取れます。
しかしこの作品は失敗作と見なされ、
初演を迎えることはありませんでした。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク
この『王様と炭焼き』第一作と
全く同じ台本に異なった音楽をつけました。
ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第二作以降、
徐々にワーグナーの影響下を脱していきます。
こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、
ワーグナーと相対していた
ブラームスでした。
++++++++++++++++++++++
ドヴォルザークは
ブラームスや「ブラームス派」の
音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって
作曲家としての地位を築きました。
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、
ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を
高い次元で兼ね備えた作曲家であったのです。
++++++++++++++++++++++
けれども
ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは。
シューベルトと並び賞されるその親しみやすく美しい
メロディーにあります。
もちろんフランツ・シューベルトとは全く異なります。
彼の交響曲第9番の第2楽章は
日本語の歌詞がつけられて
唱歌「家路」として親しまれるだけでなく。
学校やデパートなどの終業時刻を知らせるメロディーとしても
多く利用されています。
ピアノ曲『ユモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)は
フリッツ・クライスラーに
よるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、
耳に馴染んでいるメロディアスな作品です。
ただし「ユモレスク」を「ピアノ」でも「ヴアイオリン」
でも。
「音楽性豊に」演奏することは
ビルトオーゾの「テクニック」が必要です。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの歌曲
『我が母の教えたもう歌』は。
クラシック音楽の声楽家のみならず、
ポピュラー・シンガーによっても愛唱されています。
++++++++++++++++++++++
チェコ音楽史における位置づけ
ドヴォルザークの登場まで
チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、
18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあった
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された
「民族精神」の概念によってであったのです。
ヘルダーはチェコ民謡を採集し、
アンソロジーの形で発表致しました。
これに刺激され、19世紀になると
チェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになりました。
19世紀末から20世紀初頭には、
スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク
といった才能の開花につながっていきました。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで
個々の作曲家たちにとっては、
民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が
重要な問題として問われるようになっていました。
保守的な伝統主義者であった作曲家
フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」
と主張し致しました。
++++++++++++++++++++++
保守的な伝統主義者であった
作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
一定の支持を得ていました。
これを真っ向から否定したのがスメタナです。
スメタナは1865年に「民謡の旋律やリズムの模倣により
国民様式が形成されるのではない」
と表明。
標題音楽を創作することで国民性を獲得しようと致しました。
すなわち
音楽の題材としてはチェコ民族の持つ
歴史、詩歌、民話などを採用するが。
技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、
チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのです。
そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、
具体的な場面描写に限定して用いられています。
こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、
フィビフらがこの思想に同調致しました。
こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだ
フランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは
国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、
「進歩派」対「保守派」の論争となりました。
++++++++++++++++++++++
ドヴォルザークの立場
スメタナがビール醸造技師の息子であり。
フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ。
日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活し、
チェコのフォークロアから離れた生活をしていたことは。
「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測されます。
これに対して、
ドヴォルザークの生家は旅館を営んでおり、
ツィターの名手であった父親は、
旅人のために民謡や舞曲を演奏して聴かせていました。
また、ドヴォルザークは肉屋の修行の過程で
ドイツ語を勉強していることからも明らかなように、
日々の生活ではチェコ語を話していました。
こうした環境下に育った彼は、
交響曲や弦楽四重奏曲といった古典的形式を用いながら。
チェコ語のイントネーションに基づく主題や民族舞曲の
リズムをそこに持ち込み。
違和感なく構成し得たのです。
++++++++++++++++++++++
こうした中、ブラームスの目にとまった作品が
「モラヴィア二重唱曲集」
であったことは注目に値致しましす。
この作品は「モラヴィア」というタイトルではあるが。
モラヴィア民謡の特徴はあまり強くなく
むしろボヘミア的あるいは西欧音楽的な
拍節構造のはっきりした
音楽にモラヴィア音楽の旋法や和声を
部分的に用いた折衷的な作品です。
この作品がブラームスによって西欧に紹介されたことで、
彼の音楽の方向性は決定づけられました。
すなわち、彼の人気作曲家としての名声を決定づけた
「スラヴ舞曲」に代表されるスラヴ民謡風の主題を
ブラームス流の古典的な様式に織り込んだ異国趣味的な音楽を
出版社や聴衆は要求し、
ドヴォルザークはドゥムカなどのウクライナ民謡をも取り込み
汎スラヴ主義でこれに応えました。
++++++++++++++++++++++
後にアメリカに渡った後。
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌に
触れて自らの音楽に取り込んで見せました。
++++++++++++++++++++++
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの
こうした立場は、しかし「進歩派」には、
「民謡の単なる引用と模倣」からなる
「保守派」的な立場であるかに思われました。
「ボヘミア楽派」と総称され、
個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの。
スメタナとドヴォルザークの音楽上の立場は異なっていたのです。
++++++++++++++++++++++
ドヴォルザーク批判と擁護、論争
論争の口火を切ったのはフィビフに師事したこともある
カレル大学音楽学教授で文化大臣をも務めた
ズデニェク・ネイェドリーでした。
歴史家でもあった彼は
チェコの歴史や詩歌を尊重するスメタナら
「進歩派」の急先鋒であり。
ドヴォルザークの存命中である
1901年から批判論文を書き始めています。
ネイェドリーの批判に対して
ドヴォルザーク擁護派も論陣を張り、
ドヴォルザークの死後、その論争は
激しさを増していきました。
++++++++++++++++++++++
ドヴォルザーク擁護派の代表が
オタカル・ショウレクでした。
彼は「標題や言葉を伴わない
絶対音楽にも標題性は内包されている」と主張し。
交響曲第7番と序曲「フス教徒」と主題構成を対比させ、
いずれも
「愛国心を抱いた音楽家の不屈の感情吐露である」として。
標題音楽と絶対音楽という枠組みに
意味のないことを主張致しました。
++++++++++++++++++++++
こうした論争は、
チェコが国家として独立を果たすまで繰り返されたが、
チェコスロヴァキアが成立すると国民性に拘泥する必要がなくなり、
またヤナーチェクが民俗学的な手法を用いて収集したモラヴィア民謡を解体再構築するという、
ドヴォルザークの手法をより徹底した作曲技法を確立するに至り、
論争は下火になりました。
++++++++++++++++++++++
アメリカ音楽史への影響
ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという
目的のために創設された音楽院でした。
創始者のジャネット・サーバー夫人は、
メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による
英語のオペラ上演を行うことが夢であったのです。
すなわち、この音楽院は、
アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての
位置づけにあったのです。
チェコ国民楽派の大物作曲家であった
ドヴォルザークを招聘した目的も
アメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、
特に作曲分野での充実を図る狙いがありました。
ドヴォルザークがアメリカに到着した直後にサーバー夫人は
アメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表しています。
しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは
特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、
サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされませんでした。
その理由として、基本的な音楽教育が不備であり
ナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、
ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、
ドヴォルザーク自身が
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を
研究・吸収することに時間を費やし
実践的教育にまで至らなかったことなど
さまざまな憶測がなされています。
++++++++++++++++++++++
しかし、これはドヴォルザークが
以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかった
ということには当たりません。
ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、
国民音楽の潮流を生み出したことは間違いないことです。
渡米8ヶ月後の1893年5月21日にヘラルド・トリビューン紙上に
『黒人の旋律の真の価値』と題する
ドヴォルザークの論文が掲載されました。
また、1895年、チェコに帰国した後ではあるが、
ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と
題する論文を発表しています。
++++++++++++++++++++++
これらの論文を通してドヴォルザークは、
黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのです。
そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、
交響曲第9番「新世界より」、
弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、
チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものでした。
これらの作品は、スラヴ的であると同時に
アメリカのフォークロアの影響が表れており、
アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあったのです。
++++++++++++++++++++++
ドヴォルザーク門下生たちは、
黒人霊歌やジュビリーを素材とした
短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、
直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも
似たような傾向を持つ楽曲を作り始めました。
ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、
チェコに帰国する頃までには、
彼の作品のほとんどがアメリカ初演を終えていました。
ニューヨーク・フィルハーモニックは、
アメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、
ドヴォルザークを名誉会員に推挙致しました。
++++++++++++++++++++++
「続きを読む」=>*
今日の東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
の記事は「続きを読む」をどうぞ。これで終了です。
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・
「ここをおして」をクリックされてください。
「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)
++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
アントニン・ドヴォルザーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF
アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] 発音(ヘルプ・ファイル)、1841年9月8日 ミュールハウゼン・アン・デア・モルダウ(現チェコ・ネラホゼヴェス Nelahozeves) - 1904年5月1日)は、チェコの作曲家。ブラームスに才能を見いだされ、「スラブ舞曲集」で一躍人気作曲家となった。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。代表作に、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家でもある。なお、彼の名はチェコ語の発音に近いアントニーン・レオポルト・ドヴォジャークと表記されることもある。
目次
1 音楽史上の位置づけ
1.1 チェコ音楽史における位置づけ
1.1.1 ドヴォルザークの登場まで
1.1.2 ドヴォルザークの立場
1.1.3 ドヴォルザーク批判と擁護、論争
1.2 アメリカ音楽史への影響
2 生涯
2.1 幼少期
2.2 学習期
2.3 青年期
2.4 ブラームスとの出会い
2.5 国際的名声
2.6 アメリカ時代
2.7 帰国後
2.8 エピソード
3 おもな作品
3.1 交響曲
3.2 管弦楽曲
3.2.1 序曲
3.2.2 交響詩
3.2.3 セレナード
3.2.4 スラブ舞曲
3.2.5 その他
3.3 協奏曲
3.4 室内楽曲
3.4.1 六重奏曲
3.4.2 五重奏曲
3.4.3 四重奏曲
3.4.4 三重奏曲
3.4.5 二重奏曲
3.5 器楽曲
3.5.1 4手ピアノのための作品
3.5.2 ピアノ独奏曲
3.6 声楽曲
3.6.1 教会音楽、カンタータ、オラトリオ
3.6.2 歌曲
3.6.3 その他
3.7 歌劇
3.8 編曲
3.9 スケッチ、断片、その他
4 弟子
5 参考図書
6 関連記事
7 外部リンク
音楽史上の位置づけ
スタヴォフスケー劇場ドヴォルザークは、西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。
ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第一作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第一作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第二作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。
とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌「家路」として親しまれるだけでなく、学校やデパートなどの終業時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。ピアノ曲『ユモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。また、歌曲『我が母の教えたもう歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱されている。
チェコ音楽史における位置づけ
ドヴォルザークの登場まで
チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された「民族精神」の概念によってであった。ヘルダーはチェコ民謡を採集し、アンソロジーの形で発表した。これに刺激され、19世紀になるとチェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになった。19世紀末から20世紀初頭には、スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった才能の開花につながっていった。
このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで、個々の作曲家たちにとっては、民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていった。保守的な伝統主義者であった作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」と主張し、一定の支持を得ていた。これを真っ向から否定したのがスメタナである。スメタナは1865年に「民謡の旋律やリズムの模倣により国民様式が形成されるのではない」と表明、標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。すなわち、音楽の題材としてはチェコ民族の持つ歴史、詩歌、民話などを採用するが、技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのである。そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、具体的な場面描写に限定して用いられている。こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、フィビフらがこの思想に同調した。こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだフランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、「進歩派」対「保守派」の論争となった。
ドヴォルザークの立場
スメタナがビール醸造技師の息子であり、フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ、日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活し、チェコのフォークロアから離れた生活をしていたことは、「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測される。これに対して、ドヴォルザークの生家は旅館を営んでおり、ツィターの名手であった父親は、旅人のために民謡や舞曲を演奏して聴かせていた。また、ドヴォルザークは肉屋の修行の過程でドイツ語を勉強していることからも明らかなように、日々の生活ではチェコ語を話していた。こうした環境下に育った彼は、交響曲や弦楽四重奏曲といった古典的形式を用いながら、チェコ語のイントネーションに基づく主題や民族舞曲のリズムをそこに持ち込み、違和感なく構成し得たのであった。
こうした中、ブラームスの目にとまった作品が「モラヴィア二重唱曲集」であったことは注目に値する。この作品は「モラヴィア」というタイトルではあるが、モラヴィア民謡の特徴はあまり強くなく、むしろボヘミア的あるいは西欧音楽的な拍節構造のはっきりした音楽にモラヴィア音楽の旋法や和声を部分的に用いた折衷的な作品である。この作品がブラームスによって西欧に紹介されたことで、彼の音楽の方向性は決定づけられた。すなわち、彼の人気作曲家としての名声を決定づけた「スラヴ舞曲」に代表されるスラヴ民謡風の主題をブラームス流の古典的な様式に織り込んだ異国趣味的な音楽を出版社や聴衆は要求し、ドヴォルザークはドゥムカなどのウクライナ民謡をも取り込み汎スラヴ主義でこれに応えた。また、後にアメリカに渡った後は、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌に触れて自らの音楽に取り込んで見せた。こうした立場は、しかし「進歩派」には、「民謡の単なる引用と模倣」からなる「保守派」的な立場であるかに思われた。「ボヘミア楽派」と総称され、個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの、スメタナとドヴォルザークの音楽上の立場は異なっていた。
ドヴォルザーク批判と擁護、論争
論争の口火を切ったのはフィビフに師事したこともあるカレル大学音楽学教授で文化大臣をも務めたズデニェク・ネイェドリーであった。歴史家でもあった彼はチェコの歴史や詩歌を尊重するスメタナら「進歩派」の急先鋒であり、ドヴォルザークの存命中である1901年から批判論文を書き始めている。ネイェドリーの批判に対してドヴォルザーク擁護派も論陣を張り、ドヴォルザークの死後、その論争は激しさを増していった。ドヴォルザーク擁護派の代表がオタカル・ショウレクであった。彼は「標題や言葉を伴わない絶対音楽にも標題性は内包されている」と主張し、交響曲第7番と序曲「フス教徒」と主題構成を対比させ、いずれも「愛国心を抱いた音楽家の不屈の感情吐露である」として、標題音楽と絶対音楽という枠組みに意味のないことを主張した。
こうした論争は、チェコが国家として独立を果たすまで繰り返されたが、チェコスロヴァキアが成立すると国民性に拘泥する必要がなくなり、またヤナーチェクが民俗学的な手法を用いて収集したモラヴィア民謡を解体再構築するという、ドヴォルザークの手法をより徹底した作曲技法を確立するに至り、論争は下火になった。
アメリカ音楽史への影響
ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという目的のために創設された音楽院であった。創始者のジャネット・サーバー夫人は、メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による英語のオペラ上演を行うことが夢であった。すなわち、この音楽院は、アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての位置づけにあった。チェコ国民楽派の大物作曲家であったドヴォルザークを招聘した目的もアメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、特に作曲分野での充実を図る狙いがあった。ドヴォルザークがアメリカに到着した直後にサーバー夫人はアメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表している。
しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされなかった。その理由として、基本的な音楽教育が不備でありナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、ドヴォルザーク自身がネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究・吸収することに時間を費やし実践的教育にまで至らなかったことなどさまざまな憶測がなされている。
しかし、これはドヴォルザークが以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかったということには当たらない。ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、国民音楽の潮流を生み出したことは間違いない。
渡米8ヶ月後の1893年5月21日にヘラルド・トリビューン紙上に『黒人の旋律の真の価値』と題するドヴォルザークの論文が掲載された。また、1895年、チェコに帰国した後ではあるが、ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と題する論文を発表している。これらの論文を通してドヴォルザークは、黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのだった。そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものであった。これらの作品は、スラヴ的であると同時にアメリカのフォークロアの影響が表れており、アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあった。ドヴォルザーク門下生たちは、黒人霊歌やジュビリーを素材とした短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも似たような傾向を持つ楽曲を作り始めた。
ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、チェコに帰国する頃までには、彼の作品のほとんどがアメリカ初演を終えていた。ニューヨーク・フィルハーモニックは、アメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、ドヴォルザークを名誉会員に推挙したのであった。
生涯
ドヴォルザークの生家
エピソード
鉄道ファンとしても知られている。1877年以降住んだプラハのアパートはプラハの本駅からほど近く、作曲に行き詰まると散歩に出かけ汽車を眺めて帰ってきたと伝えられる。また、招聘に応じアメリカに滞在したのもアメリカ大陸の鉄道に乗ることができると言う理由が一つにあったと言われている。ニューヨークにいたころには、毎日グランド・セントラル駅へ出掛けてシカゴ特急の機関車の車両番号を記録しており、用事があって駅まで行けない日には弟子に見に行かせていたという。これには、ドヴォルザークの幼少期、1845年にウィーンからプラハ、ドレスデンを結ぶ鉄道が開通し、この列車が故郷ネラホゼヴェスを経由していて近隣の話題となったことが影響していると指摘する研究者もいる。
彼の鉄道好きについては、次のような逸話まである。ドヴォルザークは毎日同じ鉄道を利用しており、その列車が奏でる走行音を楽しんでいた。しかしある日、いつもと微妙に違う走行音が聞こえたため、ドヴォルザークが車掌にその旨を伝えたところ、車両から故障個所が見つかった。彼が鉄道ファンであることと、鋭い聴力を持つことが列車事故を防いだのだった。
また彼は友人に「本物の機関車が手に入るなら自分が今まで作ったすべての曲と取り換えてもいいのに・・・」とつぶやいたことがあったという。
鉄道ファンであったから、というわけではないが、2007年現在、「アントニン・ドヴォルザーク」号という特急列車が存在する(オーストリアのウィーンと、チェコのプラハを結ぶ)。
鳩の愛好家としても知られ、1884年に建てたヴィソカーの別荘に鳩舎を造らせている。また、知人の招きで食事に出かけたところ、鳩料理を出され、憤然として席を立ち、帰ってしまったというエピソードも残されている。
おもな作品
ドヴォルザークの作品には作品番号のないものもあり、
また作曲順になっていないものも多い。
このためブルグハウザーの整理番号が併記される場合がある。
この整理番号は通常「B.」で略記され「B番号」と呼ばれる。
交響曲
交響曲第1番 ハ短調 作品3, B.9 「ズロニツェの鐘」 (Zlonické zvony)
1865年の作品。1923年にスコアが発見され、1961年になってから出版された。1936年10月4日、ブルノで初演。
交響曲第2番 変ロ長調 作品4, B.12
1865年の作品。1887年に改訂の後、1888年3月11日にプラハで初演。
交響曲第3番 変ホ長調 作品10, B.34
1873年の作品。1874年3月29日、プラハで初演。
交響曲第4番 ニ短調 作品13, B.41
1874年の作品。第3楽章のみ1874年5月25日に初演されたが、全曲の初演は1892年3月6日プラハにて。
交響曲第5番 ヘ長調 作品76, B.54
1875年の作品。1879年3月29日、プラハで初演。
交響曲第6番 ニ長調 作品60, B.112
1880年の作品。1881年3月25日、プラハで初演。
交響曲第7番 ニ短調 作品70, B.141
1884-85年の作品。1885年4月22日、ロンドンで初演。劇的序曲『フス教徒』ととも主題上の関係がある作品。
交響曲第8番 ト長調 作品88, B.163
1889年の作品。1890年2月2日プラハで初演。イギリスのロンドンの出版社から出版されたため、かつては「イギリス」の愛称で呼ばれたこともあった。
交響曲第9番 ホ短調 作品95, B.178「新世界より」 (Z nového světa)
1893年の作品。1893年12月16日、ニューヨークで初演。第2楽章ラルゴは、歌詞がつけられ唱歌「家路」としても知られている。新世界よりという表題はニューヨーク・フィルハーモニックによる初演の少し前にスコアに書き記された。
管弦楽曲
序曲
序曲「わが家」 (Domov můj) 作品62a, B.125a
本来はフランティシェク・フェルディナンド・シャンベルクの芝居『ヨゼフ・カイエターン・ティル』の劇音楽として作曲された10曲の中の1曲であるが、現在ではこの序曲以外が演奏されることはほとんどない。ヨゼフ・カイエターン・ティルは、チェコの近代演劇を確立した実在の人物(1808-1856)。晩年は独立運動に荷担した罪を問われ、旅役者として極貧のうちに亡くなった。モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』が初演されたことで知られるティル劇場は、彼の名に由来する。
タイトルは、上記の芝居とは関係がなく、第1主題が「わが家の庭先では」という民謡から採られていることに由来する。したがって、この曲のタイトルはしばしば「わが故郷」と訳されるが、「わが家」がより適切な訳である。
初演は1882年2月3日、ティルの誕生日に行われた公演で、指揮はアドルフ・チェフが執った。
劇的序曲「フス教徒」 (Hustiská dramatická ouvertura) 作品67, B.132
フス教徒(フス派)とは、15世紀初めのチェコの宗教改革家ヤン・フスを支持した者たちのことで、フスの死(1415年)以降はさらに勢いを増し、十字軍を退け、1420年から1434年までの短い期間ではあったが民主主義政権を成立させたりもした。チェコ国民劇場の総裁フランティシェク・アドルフ・シュベルトはフス教徒時代を主題とした三部から成る演劇を企画し、その音楽として依頼に応えて作曲されたのがこの作品である。この作品には2つの有名な旋律が用いられている。1つはスメタナの『わが祖国』の第5曲、第6曲でも用いられているコラール『汝ら神の戦士達』で、これはフス教徒時代のターボル派の僧によって作曲された軍歌であるとされている。もう一つはチェコ民族の守護聖人ヴァーツラフ1世を讃える1213世紀に創られたコラールである。これらが明らかに示しているとおり、この作品は、フス教徒に祖国独立運動の願いを仮託した愛国主義的作品である。
初演は1883年11月18日モジツ・アンゲル指揮、プラハの国民劇場管弦楽団により演奏された。
序曲「自然の王国で」 (V přírodě) 作品91, B.168
序曲「謝肉祭」 (Karneval) 作品92, B.169
序曲「オセロ」 (Othello) 作品93, B.170
この3作は、まとめて序曲三部作「自然と人生と愛」を形成する。時に組曲と呼ばれるが実際の演奏会では3曲連続で演奏されることは稀で、演奏頻度は「謝肉祭」が圧倒的に高い。作曲は1891年3月から1892年1月にかけて続けてなされた。初演は1892年4月28日、プラハにおいて作曲者の指揮、国民劇場管弦楽団により行われた。「オセロ」作曲後もタイトルを「悲劇的」にしようか「エロイカ」にしようかと出版社のジムロックに相談していることからも判るように、これらは決して標題音楽ではなく、各曲がそれぞれ漠然と、自然、人生、愛に対応しているに過ぎない。
なお、第1部の「自然の王国で」というタイトルは英語訳からの重訳であるが、原語からの直訳では「自然の中で」とするのが適切。
交響詩
ドヴォルザークは、チェコの国民的な詩人カレル・ヤロミール・エルベンの「花束」という詩集の中のバラードにインスピレーションを得て4曲の交響詩を1896年に立て続けに作曲している。また、翌97年にはエルベンの詩から離れ、特定のストーリーを持たない交響詩「英雄の歌」を作曲しているが、この作品の演奏機会はエルベンによる4作に比べかなり低い。
交響詩「水の精」 (Vodník) 作品107, B.195
1896年1月から2月に作曲された。1896年6月3日プラハにてアントニン・ベンネヴィツの指揮により初演された。
ある娘が親の反対を押し切り、水界の王と結婚し、子供をもうけた。ある日、人間の歌を歌って子供あやしていると王にひどく叱られた。妃は里帰りさせてほしいと懇願して許され、親許に帰るが、母親は娘を水王のところへ戻そうとしない。妃が約束の時間までに帰らないので実家の前まで来た水王は怒って嵐を起こす。その最中に大きな物音がしたので娘が戸を開けてみると、我が子が首を切られて捨てられていた。
交響詩「真昼の魔女」 (Polednice) 作品108, B.196
1896年1月11日から2月27日の間に作曲され、初演は1896年11月21日ヘンリー・ウッドの指揮によりロンドンで行われた。
物語は、魔女が自分の悪口を言った母親に復讐するために子供を殺すという話。クラリネットで演奏される「子供の主題」とヴァイオリンで演奏される「母親の叱責の主題」が展開・変奏されて行き、それぞれ「魔女の主題」、「魔女の踊り」へと変容してゆく構成になっている。
レオシュ・ヤナーチェクはこの作品を大変に気に入っており、絶賛する評論を書いている。
交響詩「金の紡ぎ車」 (Zlatý kolovrat) 作品109, B.197
1896年1月15日から4月25日に作曲。1896年11月21日にロンドンで初演された。エルベンの詩による4曲の交響詩の中では最も長く、冗長との批判もある。このため、ヨゼフ・スークにより改訂されたこともある。
ドルニチュカという娘が森の奥の小屋で継母とその実の娘と一緒に住んでいた。狩にやってきた若い王に水を差しだし見初められたドルニチュカは、城に向かう途中、継母らの計略で殺され、その遺骸は森に捨てられる。しかし魔法使いが現れ、再び生き返らせる。魔法使いはドルニチュカに替わって王妃となった継母の娘に金の紡ぎ車を贈る。戦場から戻った王がその糸車で糸を紡ぐように命じ、王妃がそれを回すと、糸車が継母達の悪行を歌う。王はその歌に従って森へ駆けつけ、ドルニチュカと再会して、彼女と結ばれる。
交響詩「野ばと」 (Holoubek) 作品110, B.198
1896年10月22日から11月18日の作曲。1898年3月20日、ブルノでレオシュ・ヤナーチェクの指揮により初演された。
物語は、夫の死を嘆く若い未亡人から始まるが、その涙は偽りの涙であると語る。やがて若い美形の男が未亡人に近づき、2人は結婚する。亡くなった先夫の墓の上に樫の木が生え、野鳩が巣を作り、悲しげな声で鳴く。妻はその声を聞き、発狂して自殺してしまう。先夫は彼女が毒殺したのであった。音楽はこの物語を忠実になぞり、葬送の音楽から始まり、若い男と出会う未亡人の心のざわめき、結婚の祝宴、悲しげな野鳩の鳴き声を描き出し、最後は妻の罪を赦すかのように穏やかな長調で終わる。すべての主要主題が最初の1つの動機から導き出され多彩な変容を遂げる技巧的な構成であり、そのために高い緊張感と引き締まった構成をみせる傑作で、ドヴォルザークの交響詩の中で最も演奏頻度の高い作品である。
交響詩「英雄の歌」 (Píseň bohatýrská) 作品111,B.199
1897年作曲、1898年12月4日、ウィーンにてグスタフ・マーラーの指揮により初演。
セレナード
ドヴォルザークはセレナードを、いずれも30代の時期に2曲作曲しているが、楽器編成が異なっており、それぞれ「弦楽セレナード」「管楽セレナード」と呼ばれる。
セレナード ホ長調 作品22, B.52
弦楽合奏のためのセレナード。1875年5月3日から14日までの10日あまりで作曲されている。オーストリア政府からの奨学金が決まり、2年前に結婚した妻との安定した生活が保障された幸福な時期の作品で穏やかな愛情に満ちた作品となっている。1876年12月10日にプラハの国民劇場管弦楽団員および合唱団員の年金基金募集のための演奏会で初演された。指揮はアドルフ・チェフが執った。
モデラートの三部形式の第1楽章、メヌエットの第2楽章、スケルツォの第3楽章、ラルゲットの第4楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェのロンド・ソナタ形式の第5楽章からなる。いずれの楽章もカノンの模倣効果によってしなやかな叙情を描くことに成功している。
セレナード ニ短調 作品44, B.77
管楽アンサンブルのためのセレナード。楽器編成は、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット、コントラファゴット(省略可)、ホルン3、チェロ、コントラバス。1878年、スラブ舞曲第1集と同時期の作品で、民俗音楽の要素をセレナードの形式に見事に融合させた作品となっている。1878年11月17日にドヴォルザーク自身の指揮によりプラハで開催された自作発表演奏会で初演された。
第1楽章 モデラート・クアジ・マルチャ(行進曲)、第2楽章 メヌエット、第3楽章 アンダンテ・コン・モート、第4楽章 アレグロ・モルトのロンドの4つの楽章からなる。
スラブ舞曲
スラブ舞曲 第1集 作品46, B.83 (4手ピアノ版は、B.78)
【1. ハ長調 / 2. ホ短調 / 3. 変イ長調 / 4. ヘ長調 / 5. イ長調 / 6. ニ長調 / 7. ハ短調 / 8. ト短調】
1878年、出版社ジムロックからの要請で作曲されて大成功を収め、ドヴォルザークを当時の音楽界の中心へと押し上げる契機となった作品である。最初、4手のピアノ作品として作曲、出版されたが、出版と同時に大人気となり、ただちに管弦楽版の出版が決まった。管弦楽版の初演は1878年5月16日に第1、3、4番の3曲がアドルフ・チェフの指揮で行われている。
スラブ舞曲 第2集 作品72, B.147 (4手ピアノ版は、B.145)
【1. ロ長調 / 2. ホ短調 / 3. ヘ長調 / 4. 変ニ長調 /5. 変ロ短調 / 6. 変ロ長調 / 7. ハ長調 / 8. 変イ長調】ただし、番号は第1集からの通し番号で、9番から16番で呼ばれる場合もある。
第1集の大成功から、ジムロックは第2集の作曲をドヴォルザークに依頼したが、彼はこの頃大作の作曲に取りかかっており、同じ形式の小曲をさらに8曲作曲することに興味が持てずにいた。しかし、8年後の1886年6月、突然この作品集に取りかかると、1ヶ月後の7月には4手ピアノによる作品8曲を完成させた。管弦楽編曲は1886年11月から87年1月にかけて行われ、87年1月6日、作曲者自身が指揮を執りプラハで第1、2、7番の初演を行っている。
第1集に比べ、チェコ特有の音楽が抑えられ、汎スラブ的色彩の強い作品集となっているのが特徴である。
その他
交響的変奏曲 作品78, B.70
1877年に作曲された作品で、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」の影響が指摘される作品。しかし、その変奏曲は民俗色の豊かな作品で、多彩な変奏技法が凝らされたドヴォルザークの変奏曲中最も優れた作品である。初演は、1877年12月2日、ルデヴィート・プロハースカの指揮により行われた。
スケルツォ・カプリチオーソ 作品66, B.131
1883年4月から5月にかけて作曲された作品で、1883年5月16日にアドルフ・チェフ指揮の国民劇場管弦楽団により初演された。指揮者アルトゥール・ニキシュが賞賛し、演奏会でたびたび採り上げ、有名となった。
3つのスラブ狂詩曲 作品45, B.86
【1. ニ長調 / 2. ト短調 / 3. 変イ長調】
1878年の作品。いずれも民謡風の素材を活かした舞曲風の作品である。特に第3番が有名であるが、これは指揮者ハンス・リヒターが好んで採り上げ、ヨーロッパ各地で演奏した事による。
伝説曲 (Legendy) 作品59, B.122
全10曲【1. ニ短調 / 2. ト長調 / 3. ト短調 / 4. ハ長調 / 5. 変イ長調 / 6. 嬰ハ短調 / 7. イ長調 / 8. ヘ長調 / 9. ニ長調 / 10. 変ロ短調】
交響曲第6番の完成直後、1881年初めに作曲された4手ピアノ用作品(B.117)を同じ年に管弦楽用に編曲したもの。原曲は、エドゥアルト・ハンスリックに献呈された。各曲に特別な伝説や詩物語があるわけではない。4手ピアノの作品としては、2つのスラブ舞曲集の間に書かれている作品であることから、スラブ舞曲で描ききれなかったスラブ的なもの、メランコリックな気分や神秘的なものへの傾斜、深い情念の世界を描きだし、舞曲集を補完するものと位置づけられている。
協奏曲
ドヴォルザークはピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲を1曲ずつ完成させている。
なかでも、チェロ協奏曲は、「ドヴォルザークのコンチェルト」を短縮した
「ドボコン」の愛称で親しまれる名曲で、古今のチェロ協奏曲中最も親しまれている作品である。
なお、習作時代のイ長調のチェロ協奏曲も遺されているが、
これは未完成な作品で演奏される機会はほとんどない。
ピアノ協奏曲 ト短調 作品33、B.63
1876年の作品。1883年3月24日、プラハにて初演。
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53, B.108
ドヴォルザークの協奏曲といえば、チェロ協奏曲があまりに有名であるためその影は薄いものの、このヴァイオリン協奏曲は比較的演奏機会の多い作品である。この作品は、当時の大ヴァイオリニストでブラームスの友人としても有名なヨーゼフ・ヨアヒムの勧めにより作曲された。1879年7月から9月にかけて作曲を行い、ヨアヒムの助言を容れて修正を行った上で1880年5月に完成、ヨアヒムに献呈された。しかし、ヨアヒムが公開の場でこの作品を演奏することはなく、1882年夏にさらなる改訂を施され、1883年10月14日にドヴォルザークの熱狂的な支持者であったフランティシェク・オンドルシーチェックの独奏によりプラハで初演された。
チェロ協奏曲 ロ短調 作品104, B.191
1894-95年の作品。1895年6月に改訂された後、1896年3月19日、ロンドンで初演。
森の静けさ (Klid) 作品68-5, B.182
原曲は1883年から84年に書かれたピアノ連弾のための作品。1891年にチェロとピアノのための室内楽作品に編曲され、さらに1893年にチェロと管弦楽のための作品に編曲された。
室内楽曲
六重奏曲
弦楽六重奏曲 イ長調 作品48,B.80
作曲1878年、初演1879年ベルリン、 ヴァイオリン2ヴィオラ2チェロ2
五重奏曲
ピアノ五重奏曲第1番 イ長調 B.28
作曲1872年、初演1872年プラハ
ピアノ五重奏曲第2番 イ長調 作品81, B.155
1887年、ヴィソカーの別荘で作曲された。スラヴ民謡風の旋律を豊かな和声で彩る美しい作品。一見古典的な四楽章構成だが、第1楽章や終楽章のソナタ形式には独自の工夫が見られ、作曲者の揺るぎない自信が感じられる作品となっている。
1888年1月6日にプラハの市民クラブ会館で初演された。
弦楽五重奏曲第1番 イ短調 作品1,B.7
作曲1861年、初演1921年プラハ、 ヴァイオリン2ヴィオラ2チェロ1
弦楽五重奏曲第2番 ト長調 作品77,B.49
作曲1875年、初演1876年プラハ、 ヴァイオリン2ヴィオラ1チェロ1コントラバス1
弦楽五重奏曲第3番 変ホ長調 作品97, B.180
1893年夏期休暇で訪れていたアイオワ州スピルヴィルで作曲された。有名な弦楽四重奏曲『アメリカ』の完成3日後の6月26日に着手された作品で、「アメリカ」五重奏曲と呼ばれることもある。同年8月1日に完成し、翌年の1月にニューヨークで初演された。
編成は弦楽四重奏にヴィオラを加えたもの。伸びやかな楽想が印象的な作品である。
四重奏曲
ピアノ四重奏曲第1番 ニ長調 作品23, B.53
作曲1875年、初演1880年ベルリン
ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調 作品87, B.162
作曲1889年、初演1890年プラハ
パガテル 作品47,B.79
作曲1878年、初演1879年プラハ、ヴァイオリン2チェロ1ハーモニウム(またはピアノ)1
ドヴォルザークには全部で14曲の弦楽四重奏曲があるが、現在よく耳にするのは第8番以降の7曲である。これ以前の作品には、シューベルト、ワーグナー、ベートーヴェン、スメタナといった先人の強い影響が感じられ、習作の域を脱しきれないもどかしさがつきまとうが、第8番以降の作品にはドヴォルザーク自身の強い個性と意志が込められている。
弦楽四重奏曲第1番 イ長調 B.8
作曲1862年、初演1862年プラハ
弦楽四重奏曲第2番 変ロ長調 B.17
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 B.18
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第4番 ホ短調 B.19
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第5番 ヘ短調 作品9,B.37
作曲1873年、初演1930年プラハ
弦楽四重奏曲第6番 イ短調 作品12,B.40
作曲1873年
弦楽四重奏曲第7番 イ短調 作品16,B.45
作曲1874年、初演1874年プラハ。L.プロハスカに献呈
弦楽四重奏曲第8番 ホ長調 作品80, B.57
1876年1月から2月にかけて作曲された。ドヴォルザークはこの前年の9月に長女を亡くしており、その深い悲しみの影がこの作品に独特な翳りを与えている。初演は1889年4月4日にロンドンで行われた演奏会であったろうと推測されている。
弦楽四重奏曲第9番 ニ短調 作品34, B.75
1877年12月の作品。出版社ジムロックを紹介してくれた恩人ブラームスに献呈するために作曲された作品であり、引き締まった構成にブラームスの作品を研究した後がうかがわれる。また、スラブ民謡の要素がそこここに見られる点も興味深い。1882年2月27日にフェルディナント・ラハナーらによって演奏されたのが初演であったと推測される。
弦楽四重奏曲10番 変ホ長調 作品51, B.92
当時有名な弦楽四重奏団であったフローレンス四重奏団の主催者ヤン・ベッカーから「スラヴ的な弦楽四重奏曲」を書いてほしいとの依頼に応えて1878年12月から79年3月に作曲された作品。注文通りスラヴ情緒が横溢する作品である。1879年7月29日ベルリンのヨアヒム邸で開かれた私的な演奏会で初演された。
弦楽四重奏曲第11番 ハ長調 作品61, B.121
ヘルメスベルガー四重奏団からの依頼に応えて作曲された作品で、1881年11月10日に完成している。初演は、ヘルメスベルガー四重奏団がウィーンで行う予定であったがリング劇場の火事によりキャンセルされ、1882年11月にベルリンでヨアヒム四重奏団によって行われた。ウィーンでの演奏を念頭に置いて作曲されたため、ボヘミア的な要素は抑えられ、ドヴォルザークらしさという点では一歩引いた作品となっている。
弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 作品96, B.179 『アメリカ』 (The American)
1893年の作品。1894年1月1日ボストンにて初演。
弦楽四重奏曲第13番 ト長調 作品106, B.192
1895年にアメリカから帰国したドヴォルザークが約半年の休養を経て書かれた作品で、1895年11月から12月にかけて作曲された。初演は1896年10月9日、プラハでチェコ弦楽四重奏団により行われた。故郷に帰ったくつろいだ感覚に満ちた作品で音楽評論家のクラップハムはこの作品の前半2つの楽章について「彼の室内楽曲の中で最もすばらしい」と賞賛している。
弦楽四重奏曲第14番 変イ長調 作品105, B.193
アメリカ滞在中に着手され、チェコに帰国した後1895年12月30日に完成した。第13番同様、祖国への愛情が凝縮された作品である。
弦楽四重奏のための『糸杉』 (Cypřiše) B.152
歌曲集『糸杉』B.11から12曲を1887年に編曲したもの。
三重奏曲
ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 作品21, B.51
作曲1875年、初演1877年プラハ
ピアノ三重奏曲第2番 変ロ長調 作品26, B.56
作曲1876年、初演1879年トゥルノフ
ピアノ三重奏曲第3番 ヘ短調 作品65, B. 130
1883年2月から3月にかけて作曲され、同年秋に改訂されている。初演は1883年10月27日、ボヘミアの町ムラダー・ボレスラフにて、作曲者のピアノ、フェルディナント・ラハナーのヴァイオリン、アロイス・ネルダのチェロで行われた。ハンスリックにウィーンへ来るよう誘われ、オペラ作曲家としての栄光とチェコへの愛国心の葛藤に悩まされた時期の作品で、比較的荒々しい表現が目立つ作品となっている。
ピアノ三重奏曲第4番 ホ短調 作品90, B. 166 「ドゥムキー」
1890年11月から翌91年の2月にかけての作品で、1891年4月21日に作曲者のピアノ、ラハナーのヴァイオリン、ハヌシュ・ヴィハンのチェロで初演された。「ドゥムキー」とは、ウクライナの民謡形式の一つ「ドゥムカ」の複数形だが、チェコ語で同じ「ドゥムカ」という言葉があり、「回想」あるいは「瞑想」を意味する。ドヴォルザークの作品が民謡としての「ドゥムカ」の形式を必ずしも踏襲していないことから、後者の意味で使っているという説もあるが、定かではない。この作品は、6つの楽章からなるがソナタ形式の楽章が一つもなく、調性の統一も見られない上に、全曲を統一する主題や動機もないという、多楽章作品としては特異な形式の作品である。
弦楽三重奏曲 ハ長調 作品74, B. 148
作曲年1887年、初演1887年プラハ、(ヴァイオリン2、ヴィオラ1)
ミニアチュア (Drobnosti) 作品75a, B. 149
作曲年1887年、初演1938年プラハ、(ヴァイオリン2、ヴィオラ1)
ガヴォット (Gavota) ト短調 B. 164
作曲1890年、3本のヴァイオリンのための作品。
二重奏曲
ヴァイオリンソナタ ヘ長調 作品57, B.106
1880年の作品。もう一曲イ短調の曲があったが、初演後破棄してしまった。
カプリッチョ Capriccio B.81
1878年の作品。(ヴァイオリン1、ピアノ1)
バラード I balada 作品15, B.139
1885年の作品。(ヴァイオリン1、ピアノ1)
ロマンチックな小品 (Romantické kusy) 作品75, B.150
4曲から成る小品集。この作品は、1887年1月中旬にまず弦楽三重奏曲として作曲された。この後すぐにヴァイオリンとピアノのための作品として編曲を行い。同じ月の25日にはすでに編曲が完了した。初演は1887年3月30日、作曲者のピアノ、カレル・オンドジーチェクのヴァイオリンで行われた。
ソナティーナ ト長調 作品100, B.183
1893年11月から12月に15歳の娘オティリエと10歳の息子アントニンのために作曲したヴァイオリンとピアノのための作品。このため、技巧的には、子供にも弾けるような作品で、同時期の新世界交響曲やアメリカ四重奏曲などと類似の特徴が認められる親しみやすい音楽である。
森の静けさ (Klid) 変ニ長調 作品68-5, B.173
ピアノ連弾曲を1891年にチェロとピアノのための室内楽作品として編曲したもの。後にチェロと管弦楽作品として再度編曲されている。協奏曲の項参照。
チェロソナタ ヘ短調 B.20
1871年の作品。チェロパート譜の一部のみ現存。
ポロネーズ イ長調 B.94
1879年の作品。初演は1879年トゥルノフ。(チェロ1、ピアノ1)
器楽曲
4手ピアノのための作品
スラブ舞曲 第1集 (Slovanské tance) 作品46, B.78
伝説曲 (Legendy) 作品59, B.117
スラブ舞曲 第2集 (Slovanské tance) 作品72, B.145
いずれも管弦楽編曲され親しまれている。管弦楽曲の項に詳述。
ボヘミアの森から (Ze Šumavy) 作品68, B.133
全6曲【1. 糸を紡ぎながら / 2. 暗い湖の畔で / 3. 魔女の安息日 / 4. 待ち伏せ / 5. 森の静けさ / 6. 嵐の時】
1883年秋から84年1月にかけて作曲された。原題は、「シュマヴァの森から」。第5曲は、1891年にチェロとピアノのための室内楽作品(B.173)に、次いで1893年にチェロと管弦楽のための作品(B.182)に編曲された。
ピアノ独奏曲
主題と変奏 (Tema con variazioni) 変イ長調 作品36, B.65
1876年に作曲された作品で、曲集を除くピアノ独奏曲としてはドヴォルザーク作品中最も規模の大きな作品である。(演奏時間約12分)主題と8つの変奏曲から成る。ベートーヴェンのピアノソナタ第12番の第1楽章をモデルに作曲されたと考えられる。
詩的な音画 (Poetické nálady) 作品85, B.161
全13曲【1. 夜の道 / 2. たわむれ / 3. 古い城で / 4. 春の歌 / 5. 農夫のバラード / 6. 悲しい思い出 / 7. フリアント / 8. 妖精の踊り / 9. セレナード / 10. バッカナール / 11. おしゃべり / 12. 英雄の墓にて / 13. 聖なる山にて】
1889年作曲。「ボヘミアの森から」とは異なる視点からボヘミアの田舎を描き出した作品。ドヴォルザークはジムロックへの手紙に「シューマンのような標題音楽を書きました。ただし音楽はシューマン風ではありませんが」と書いている。
ユーモレスク (Humoresky) 作品101, B.187
全8曲【1. 変ホ短調 / 2. ロ長調 / 3. 変イ長調 / 4. ニ短調 / 5. イ短調 / 6. ロ長調 / 7. 変ト長調 / 8. 変ロ短調】
1894年の夏の休暇にチェコに帰国した際に作曲された。第7曲はクライスラーのヴァイオリン独奏はじめ様々に編曲され親しまれており、原曲がピアノ独奏曲であることは半ば忘れられている。
声楽曲
教会音楽、カンタータ、オラトリオ
スターバト・マーテル 作品58, B.71
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1875年9月、ドヴォルザークは長女を失う不幸に見舞われた。彼は、1876年2月にこの曲に着手し5月にはスケッチを完成させたが、他の仕事に手を取られてこの作品は棚上げにされていた。ところが、1877年8月に次女を、9月に長男を相次いで失い、彼らの冥福を祈る意味でこの作品に再び向かうと、11月13日にはオーケストレーションを完成させた。全10曲中アレグロで書かれているのは、終曲の後半のみで、あとはすべて緩徐な曲である。また、10曲中4曲が長調の曲であり、深い悲しみを克服し穏やかな平安を得ようとする真摯な祈りに満ちた作品となっている。
初演は、1880年12月23日、プラハ音楽芸術家協会の定期コンサートにおいてアドルフ・チェフの指揮により行われた。
レクイエム 変ロ短調 作品89, B.165
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1890年1月から10月にかけて作曲された。この時期はドヴォルザークにとって栄誉に満ちた時期であった。前年の1889年にはチェコ人としては異例なことに鉄王冠章をオーストリア皇帝から与えられ、1890年になるとチェコの科学芸術アカデミー会員に列せられ、カレル大学の名誉哲学博士の学位を贈られてもいる。プラハ音楽院の教授に就任したのも、この作品完成直後のことであった。イギリスのバーミンガム音楽祭のための新作依頼に応えて作曲されたもので、スターバト・マーテルの場合とは異なり精神的衝動が契機となったものではないが、素朴で抒情的な美しい旋律にあふれたレクイエムであり、ヤルミール・ブルグハウザーは「ドヴォルザークの全作品中最も哲学的な作品」と評している。第1曲の冒頭のF,Gフラット,Eの音程進行は、ドヴォルザークが深く敬愛したバッハロ短調ミサの第3曲の冒頭の引用である。(バッハの該当作をバロックピッチで演奏すると、f,g-flat,eになることから)
1891年10月9日、バーミンガム音楽祭において作曲者自身の指揮によって初演された。
テ・デウム ト長調 作品103, B.176
ソプラノ、バス、合唱、オーケストラ
1892年、渡米を直前に、渡米直後に開かれるアメリカ発見200年祭のための作品として作曲された。彼を招いたジャネット・サーバー夫人からの依頼で、当初の予定ではアメリカの詩人ジョセフ・ロドマン・ドレイクの詩「アメリカの旗」に付曲することになっていたのだが、プラハのドヴォルザークのもとにその詩が送られてこず、典礼文「テ・デウム」に付曲することにし、同年の6月25日から7月28日にかけて作曲され、1892年10月21日にニューヨークでドヴォルザークの指揮の下初演された。カンタータ「アメリカの旗」 (作品102、B.177)は渡米後の1893年に完成された。
渡米前の作品であるにもかかわらず、すでにいくつかの主題が五音音階で構成されていることから、ドヴォルザークが渡米前からアメリカの民俗音楽を研究していたことが示唆される作品である。
カンタータ「幽霊の花嫁」 (Svatební košile) 作品69, B.135
ソプラノ、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1883年5月から11月の作曲。翌年3月28日、プルゼニュにおいて作曲者自身の指揮により初演された。
原作は、カレル・ヤロミール・エルベンの「初夜の肌衣」(Svatební Košile)。序曲と三部18曲からなる。第1部「乙女の部屋」、女が恋人の亡くなったことを知らず、思い続けている。そして「恋人を帰すか、私の命を断つか」と祈る。第2部「夜の道行き」では、死んだ恋人の幽霊が現れ墓場へ誘う。第3部「墓場にて」で、女は苦しみの後に罪を悟り神に許しを乞い、救われる。
オラトリオ「聖ルドミラ」 (Svatá Ludmila) 作品71, B.144
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1885年9月から翌年5月にかけて作曲された。初演は、1886年10月15日、イギリスのリーズで行われた。ドヴォルザークの創作意欲、技術、能力の最盛期を告げる作品である。
ヤロスラフ・ヴルフリツキーの台本よる作品で、9世紀後半、チェコでのキリスト教受容の歴史を描いている。聖ルドミラは、チェコの統一を成し遂げた王ボジヴォイ1世の妃(一説には娘)で、国家としてギリシャ正教を受け容れ、国民を帰依させることに貢献した。王の死後、ローマ・カトリック信者であった息子の嫁ドラホミーラによって暗殺された。このため、正教会の聖人とされた。
作品は、三部45曲からなる。第1部はムニェルニーク城の中庭で、人々が女神バーバの像の建立祭に沸いているところへキリスト教の伝道僧イヴァンが現れ、雷を起こしてバーバの像を打ち砕き、唯一神への信仰を説く。人々が恐れおののく中、ルドミラはイヴァンの言葉に惹かれてゆく。第2部でルドミラはイヴァンの山の隠れ家を訪ねキリスト教へ帰依することを誓う。そこへボジヴォイが狩の帰りに通りかかる。イヴァンは獲物であった牝鹿を生き返らせる。ボジヴォイは驚き、さらに傍らのルドミラの美しさに惹かれ、キリスト教を受け容れる。第3部はモラヴィアのヴェシフラト大聖堂での洗礼の場面。新婚のボジヴォイとルドミラが洗礼を受け、民衆はこれを祝福して、こぞってキリスト教に帰依する。
歌曲
歌曲集「糸杉」 (Cypřiše) B.11
1865年、音楽の家庭教師を務めていたヨゼフィーナ・チェルマーコーヴァーに恋愛感情を抱くが、失恋した想いから生まれた歌曲集。モラヴィアの詩人グスタフ・プレガー=モラフスキーの詩集「糸杉」に付曲したもので、18曲から成る。このままの形での出版はなされなかったが、後に手を加えて、「4つの歌曲」作品2, B.124、歌曲集「愛の歌」作品83、B.160に分けて全12曲が出版された。また、12曲が1887年に弦楽四重奏のための「糸杉」として編曲されており、作曲者がこの歌曲集に深い愛着を持っていたことが分かる。
モラヴィア二重唱曲集 (Moravské dvojzpěvy) 作品32, B.60, 62
全13曲【1. あんたから逃げて / 2. 小鳥よ、飛んで行け / 3. 大鎌が研ぎすまされていたら / 4. 仲良く出会ったのだから / 5. スラヴィーコフの小さな田畑 / 6. かえでの樹にとまる鳩 / 7. 小川と涙 / 8. へりくだる娘 / 9. 指輪 / 10. 青くなれ、青く / 11. 捕らわれた娘 / 12. 慰め / 13. 野ばら】
ドヴォルザークはプラハの裕福な商人ヤン・ネフに1873年からピアノの教師として雇われていたが、ある日、レッスンの後に家族で歌うための二重唱曲を作曲してほしいとの依頼を受けた。初めの依頼は、1860年に編まれた「モラヴィア民謡集」の何曲かに、重唱パートと伴奏をつけてほしいというものであったが、ドヴォルザークはこれに満足できず、民謡集から詩だけを採って新たな二重唱曲を作曲した。1875年3月から翌年の7月半ばまでに作曲を行い、この年のクリスマス前に再構成を施して現在の形とした。
この曲集は、オーストリア政府の国家奨学金審査のための応募作品として提出され、審査員であったブラームスの目にとまった。ブラームスは出版社ジムロックにドヴォルザークを紹介し、1878年にこの作品が出版されると、大好評を博し、スラブ舞曲第1集の作曲依頼へとつながる。ドヴォルザークが作曲家としての名声を得る端緒となった歌曲集である。
歌曲集「ジプシーの歌」 (Cigánské melodie) 作品55, B.104
全7曲【1. 私の歌が鳴り響く / 2. さあ聞けよトライアングルを / 3. 森は静かに / 4. 我が母の教えたまいし歌 / 5. 弦の調子を合わせて / 6. 軽い亜麻の服を着て / 7. 鷹は自由に】
ボヘミアの詩人アドルフ・ヘイドゥークの詩をドヴォルザーク自身がドイツ語に訳して付曲した1880年の作品。ウィーンで活躍していたボヘミア出身の歌手グスタフ・ヴァルターを念頭に作曲された。原稿の楽譜では、ドイツ語の歌詞とチェコ語の歌詞が併記されている。
第4曲は、この曲集においてのみならず、ドヴォルザークが作曲した歌曲中、最も有名な作品。その他、この曲集には、伴奏部にツィンバロンやトライアングルの響きを模した音型が登場する曲も含まれている。
歌曲集「愛の歌」 (Písně milostné) 作品83, B.160
全8曲【1. ああ、私たちの愛は / 2. 多くの人の心に死がはびこり / 3. あの家の周りをさまよい歩く / 4. 私は甘いあこがれにひたる / 5. この地にさわやかな西風が吹き / 6. 森の中の川辺に / 7. あなたの優しいまなざしに / 8. かけがえのない愛しい人】
前述の通り、歌曲集「糸杉」の中の8曲(第8, 3, 9, 6, 17, 14, 2, 4曲)を1888年に加筆・修正したもの。
聖書の歌 (Biblické písně) 作品99, B.185
全10曲【1. 黒雲と暗闇が主のまわりにあり / 2. 御身はわが隠れ家 / 3. 神よ、わが祈りを聞きたまえ / 4. 主はわが牧者 / 5. 神よ、神よ、新しい歌を歌わん / 6. おお神よ、わが願いを聞きたまえ / 7. バビロン川のほとりで / 8. 主よ、われを顧みたまえ / 9. 山に向かいてわれは目を上げ /10. 主に向かいて新しき歌を歌え】
1894年3月の作品。16世紀のクリチカのチェコ・プロテスタント聖書による。アメリカに滞在していたドヴォルザークは、前年からこの年にかけて、グノー、チャイコフスキー、ハンス・フォン・ビューローと相次いで偉大な音楽家の訃報に接した。さらにこの年には父親の病状が悪化しており、この歌曲集完成の直後3月28日に亡くなっている。ドヴォルザークは元来信仰心の厚い人物であったが、これらの訃報に接し、一層敬虔な気持ちになり、聖書に基づく歌曲集の作曲を行ったものと推測されている。
ドヴォルザークは1895年にこの曲集の内の5曲を管弦楽伴奏版に編曲し、残りの曲も1914年にチェコ・フィルハーモニーの指揮者であったツェマーネクの手で編曲されており、管弦楽伴奏で歌われることもある。また、バリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがドイツ語訳した歌詞で歌われることもある。
その他
賛歌「白山(ビーラー・ホラ)の後継者たち」 (Hymnus: Dědicovebílé hory) 作品30, B.27
1872年5月頃から6月3日にかけて作曲された作品。ヴィーチェスラフ・ハーレクの詞による愛国的讃歌である。1873年3月9日に学生時代からの親友カレル・ベンドルの指揮によってプラハで初演されるや、大評判となり、それまでほとんど無名に近かったドヴォルザークはプラハの音楽界で名声を得ることとなった。作品はこの後、1880年、1884年と二度にわたり改訂されている。
作品は2つの部分からできている。第1部は白山の戦いに敗れ祖国独立がならなかったことを嘆き悲しむ歌、第2部では自由のための闘争への忠誠と勇気を歌う。第2部にフス教徒のコラールに似た主題が英雄の主題として用いられている。
歌劇
ドヴォルザークには11曲の歌劇があるが、このうち、第2作と第3作とは同じ台本「王様と炭焼き」に全く異なった曲をつけた極めてまれな作品である。チェコ語というハンディがある上に、台本自体が優れたものでなかったせいもあって、国際的に高い評価を得て、上演が繰り返されているのは第10作の「ルサルカ」だけで、他の作品の上演を目にすることは極めてまれである。また、同じくメロディー・メーカーとして天才であったシューベルトが、やはり歌劇の分野ではその才能を発揮できなかったことを考え合わせると興味深い。また、スケッチのみの歌劇が4つ残されている。
アルフレート (Alfred) B.16
1870年作曲、1838年12月10日初演(オロモウツ)。台本は、K.T.ケルナー。序曲のみ「劇的序曲」(旧作品番号1)として出版。
王様と炭焼き (Král a uhlíř) B.21(第1作)
1871年作曲。1929年5月28日初演(プラハ)。台本はB.J.ロベスキー。
王様と炭焼き (Král a uhlíř) B.42(第2作)、作品14,B.151(第3作)
1874年作曲、1887年改訂(第3作)。B.42と同じ台本に全く違う音楽をつけたもの。第3作は第2作の改訂版、台本の改訂に伴い第3幕を新しい音楽に書き換えた。第2作の初演は1874年11月24日。第3作の初演は1887年6月15日、ともにプラハ。台本B.J.ロベスキー。第3作の台本改訂は、V.J.ノヴォトニーによる。
がんこな連中 (Tvrdé palice) 作品17,B.46
1874年作曲。1881年10月2日初演(プラハ)。台本は、J.シュトルバ。
プルジェデフラ・ヴァンダ (Předehra Vanda) 作品25,B.55
1875年作曲、1876年4月17日初演(プラハ)。J.スルジツキのポーランド語の原作を、ザグレイス師とV.ベネシュ=シュマウスキにより訳、脚本化。
いたずら農夫 (Šelma sedlák) 作品37,B.67
1877年作曲。1878年1月8日初演(プラハ)。台本J.O.ヴェセリー。
ディミトリー(Dimitrij) 作品64
1881-82年作曲、1883年・1894年改訂。1882年10月8日初演(プラハ)。台本M.チェルヴィンコヴァー=リーグロヴァー。
ジャコバン党員 (Jakoín) 作品84, B.159(第1稿), B.200(第2稿)
3幕。第1稿は、チェルヴィンコヴァー=リーグロヴァーの台本により、1887年11月から1888年11月に作曲され、1889年2月12日にプラハ国民劇場で初演された。その後、1897年2月から12月に改訂された。この改訂では、台本も作者とその父親で有力な政治家でもあったF.L.リーゲルとによって修正されている。これが第2稿として別のB番号を与えられた。第2稿の初演は1898年6月19日、プラハ国民劇場にて。
18世紀末、ボヘミアの田舎の村が舞台。ボヘミアの伯爵ハラソフの息子ボフシュは陰謀によって故郷を逐われるが、この亡命中に革命直後のフランスを見聞きし、数年後妻ユリエとともに帰郷する。しかしハラソフの家を乗っ取ろうと画策していた甥にジャコバン党員だとの中傷を流され、投獄されてしまう。妻は、夫の恩師で村のカントルを務める友人ベンダの助けを借り、村の人々とともに甥の陰謀を暴き、夫の名誉と地位を回復する。
悪魔とカーチャ (Čert a Káča) 作品112, B.201
3幕。台本は、有名なおとぎ話に基づきアドルフ・ヴェニクが作成した。この台本は元々国民劇場主催の台本コンクールに提出し入賞した作品であった。1898年5月から99年2月にかけて作曲され、1899年11月23日にプラハの国民劇場で初演された。
無慈悲で傲慢な女領主の圧政で疲弊した村へ、間抜けで臆病な悪魔マルブエルがその女領主を引き立てにやってくる。しかしマルブエルは途中で村娘のカーチャを見初め地獄へ誘い、連れて行く。ところがカーチャは村一番のおしゃべりで、マルブエルにつきまとって散々な目に遭わせる。マルブエルが閉口しているところへ羊飼いのイルカがやって来る。イルカはカーチャを連れて帰るというので地獄は宴会となり、この間にイルカとカーチャは村に戻る。村に帰ったイルカは、女領主に悪魔が地獄へ引き立てにやってくると知らせ、悪魔を撃退する代わりに農民の待遇改善と民主化を約束させる。やがてマルブエルがやってくると、イルカはその耳元で、カーチャがお前のことにひどく腹を立てていると脅す。そこへカーチャがやってきたのを見てマルブエルは慌てて逃げ出す。この功績でイルカは新しい民主政府の筆頭顧問官に任命され、人々は大喜びとなる。
ルサルカ (Rusalka) 作品114, B.203
3幕。ヤロスラフ・クヴァピルの台本により、1900年4月から11月に作曲され、1901年3月31日にプラハ国民劇場で初演された。第1幕でルサルカが歌う「月への祈り」は単独で歌われることも多い美しいアリアである。
ルサルカは、森の奥にある湖に住む水の精。ある日人間の王子に恋をし、魔法使いイェジババに人間の姿に変えてもらう。ただし、人間の姿の間はしゃべれないこと、恋人が裏切った時にはその男とともに水底に沈む、というのがその条件であった。美しい娘になったルサルカを見た王子は彼女を城に連れて帰り、結婚する。しかしその祝宴でも口をきかないルサルカを冷たい女だと不満に思った王子は、祝宴にやってきた外国の王女に心を移してしまう。祝宴の中、居場所をなくしたルサルカが庭へ出ると、水の精によって池の中に連れ込まれてしまう。王子は恐怖のあまり王女に助けを求めるが王女は逃げ去る。森の湖へ移されたルサルカに魔法使いは、元の姿に戻すには裏切った男の血が必要だと語り、ナイフを渡す。ルサルカは王子を殺すことはできないとナイフを捨ててしまう。ルサルカを探して王子が湖にやってくる。そこで彼は妖精達から自分の罪を聞かされ、絶望的にルサルカを呼ぶ。王子はルサルカに抱擁と口づけを求める。それは王子に死をもたらすのだとルサルカは拒むが、王子は「この口づけこそ喜び、幸いのうちに私は死ぬ」と答える。ルサルカはもはや逆らうことをやめ、王子を抱いて口づけ、暗い水底へと沈んでゆく。
アルミダ (Almida) 作品115,B.206
1902-03年作曲、1904年3月25日初演(プラハ)。原作T.タッソー『エルサレム解放』をJ.ヴルフリツキーが台本化。
編曲
ヨハネス・ブラームス『ハンガリー舞曲集』の第17曲-第21曲の管弦楽版
スケッチ、断片、その他
ポルカ B.300(消失)
ピアノ小品 B.407a / 407b
戦争序曲 B.414(スケッチ)
オラトリオ 「ヨハネの黙示録」 B.432(スケッチ)
弟子
後世に名を残したプラハ音楽院時代の弟子には、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク、ヨセフ・スク、オスカル・ネドバルがいる。
参考図書
『作曲家別名曲解説ライブラリー6 ドヴォルザーク』 (1993年、音楽之友社) ISBN 4276010462
内藤久子著 『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』 (2004年、音楽之友社) ISBN 4276221862
内藤久子著 『チェコ音楽の歴史:民族の音の表徴 』(2002年、音楽之友社) ISBN 4276135672
関連記事
ウィキメディア・コモンズには、アントニン・ドヴォルザーク に関連するマルチメディアがあります。チェコの音楽
クラシック音楽の作曲家一覧
クラシック音楽の曲名一覧
外部リンク
アントニーン・ドヴォルザーク簡易作品表
Antonin Dvorak (1841-1904)
IMSLP - International Music Score Library Project 内のドヴォルザークのページ。無料で楽譜が入手可能。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF" より作成
カテゴリ: チェコの作曲家 | ロマン派の作曲家 | オペラ作曲家 | 1841年生 | 1904年没
++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
9月8日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%888%E6%97%A5
できごと
1180年(治承4年8月17日) - 源頼朝が伊豆国で挙兵する。
1926年 - ドイツが国際連盟加盟国となる。
1943年 - イタリアの講和 (第二次世界大戦)、イタリアが連合国への無条件降伏を受諾。
1951年 - 日本国との平和条約・日米安保条約調印。
1954年 - 東南アジア条約機構(SEATO)発足。
1971年 - 中国の林彪がクーデター失敗、墜落死。
1982年 - ボーイング767型機が初運行。
1986年 - 「日韓併合は韓国にも責任」発言で中曽根首相が藤尾文相罷免。
誕生日
B.C.30年頃 - 聖母マリア、イエス・キリストの母(没年不詳)
685年(垂拱元年8月5日)- 玄宗、第6代唐皇帝(+ 762年)
1157年 - リチャード1世(獅子心王)、イングランド王(+ 1199年)
1474年 - ルドヴィーコ・アリオスト、詩人(+ 1533年)
1503年(文亀3年8月18日)- 島津勝久、戦国武将(+ 1573年)
1633年 - フェルディナント4世、ローマ王(+ 1654年)
1680年(延宝8年8月16日)- 京極宮文仁親王、江戸時代の皇族(+ 1711年)
1702年(元禄15年8月17日)- 池田継政、第3代岡山藩主(+ 1776年)
1750年(寛延3年8月8日)- 谷風梶之助 (2代目)、大相撲力士、横綱(+ 1795年)
1815年 - アレクサンダー・ラムジー、第34代アメリカ合衆国陸軍長官(+ 1903年)
1815年 - ジュゼッピーナ・ストレッポーニ、ソプラノ歌手(+ 1897年)
1830年 - フレデリック・ミストラル、詩人(+ 1914年)
1841年 - アントニン・ドヴォルザーク、作曲家(+ 1904年)
1848年 - ヴィクトル・マイヤー、化学者(+ 1897年)
1854年 - ハインリヒ・クロイツ、天文学者(+ 1907年)
1856年 - ヨハネス・ヴィルジング、天文学者(+ 1943年)
1863年 - W・W・ジェイコブズ、小説家(+ 1943年)
1864年 - ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、生物学者(+ 1944年)
1867年 - アレクサンドル・パルヴス、政治活動家(+ 1924年)
1882年 - 阿武天風、小説家(+ 1928年)
1884年 - 松山省三、画家・実業家(+ 1970年)
1893年 - 坪井誠太郎、地質学者(+ 1986年)
1903年 - 田村孝之介、画家(+ 1986年)
1906年 - ロッター・エミリア、フィギュアスケート選手(+ 2003年)
1907年 - フィリップ・フィッシャー、投資家(+ 2004年)
1908年 - 十朱久雄、俳優(+ 1985年)
1910年 - ジャン=ルイ・バロー、俳優(+ 1994年)
1912年 - 亀田忠、元プロ野球選手(+ 1976年)
1925年 - 堺左千夫、俳優(+ 1998年)
1929年 - クリストフ・フォン・ドホナーニ、指揮者
1931年 - 川口節子、女優
1936年 - 宗近晴見、俳優、声優
1938年 - 堀江謙一、ヨット冒険家
1938年 - 井上俊、社会学者
1941年 - 山口英夫、将棋棋士
1943年 - 大熊忠義、元プロ野球選手・野球解説者
1947年 - ワレリー・アファナシエフ、ピアニスト
1948年 - 米良明久(ザ・グレート・カブキ)、プロレスラー
1949年 - 原田明、化学者
1950年 - 龍田直樹、声優
1951年 - 木之元亮、俳優
1952年 - 土師孝也、俳優、声優
1952年 - 桂ひな太郎、落語家
1953年 - 福井謙二、フジテレビアナウンサー
1959年 - 島津冴子、声優
1960年 - 鈴木亜久里、レーサー
1960年 - 高橋巨典、テレビ宮崎アナウンサー
1960年 - 紺野美沙子、女優、エッセイスト
1960年 - 松井常松、ミュージシャン(元BOØWYのベーシスト)
1962年 - トーマス・クレッチマン、俳優
1962年 - 高山郁夫、元プロ野球選手
1963年 - 松本人志(ダウンタウン)、お笑い芸人
1966年 - シャーリー・クランプ、歌手
1966年 - 田中ユタカ、漫画家
1966年 - 菊田俊介、ミュージシャン
1967年 - 高橋しん、漫画家
1968年 - 近藤真市、元プロ野球選手、コーチ
1969年 - 中西哲生、元サッカー選手、スポーツジャーナリスト
1969年 - ガリー・スピード、サッカー選手
1970年 - くまいもとこ、声優
1970年 - ラトレル・スプリーウェル、バスケットボール選手
1971年 - ヘンリー・トーマス、俳優
1972年 - 大石まどか、歌手
1972年 - 関智一、声優
1974年 - こぶしのぶゆき、声優
1976年 - 秋本祐希、女優
1976年 - 真田アサミ、声優
1977年 - 広沢タダシ、ミュージシャン
1979年 - 山咲あかり、AV女優
1979年 - SONOMI(くレーベル)、歌手
1979年 - ヒオルビス・ドゥベルヘル、野球選手
1980年 - 門脇舞以、声優
1981年 - 茂庭照幸、サッカー選手(FC東京)
1982年 - 岡見時秀 、お笑い芸人(上々軍団)
1982年 - 前田和哉、サッカー選手(セレッソ大阪)
1983年 - 西村弥、プロ野球選手
1984年 - 阿部健太、プロ野球選手
1984年 - 新里智将、プロバスケットボール選手
1986年 - 後藤圭太、サッカー選手(鹿島アントラーズ)
1986年 - 大野拓弥、騎手
1987年 - 本仮屋ユイカ、女優
1989年 - 松山傑、野球選手
1990年 - 仲村瑠璃亜、アイドル
1991年 - CHiYO、歌手
1992年 - 滝野雄、ジャニーズJr.
忌日
780年 - レオーン4世、東ローマ皇帝(* 750年)
1134年 - アルフォンソ1世、アラゴン・ナバラ王(* 1073年もしくは1074年)
1425年 - カルロス3世、ナバラ王(* 1361年)
1519年(永正16年8月15日) - 北条早雲、戦国大名(* 1573年)
1600年(慶長5年8月1日)- 鳥居元忠、戦国武将(* 1539年)
1613年 - カルロ・ジェズアルド、作曲家(* 1566年?)
1645年 - フランシスコ・デ・ケベード、詩人(* 1580年)
1675年 - アマーリエ、オランダ総督フレデリック・ヘンドリックの妃(* 1602年)
1754年(宝暦4年7月18日)- 芳沢あやめ (2代目)、歌舞伎役者(* 1702年)
1812年 - シャルル・アンドレ・メルダ、フランス革命・第一帝政期の軍人(* 1770年)
1814年 - マリア・カロリーナ・ダズブルゴ、両シチリア王フェルディナンド1世の妃(* 1752年)
1829年(文政12年8月11日)- 鏡岩濱之助、大相撲の力士・元小結(* 1769年)
1869年 - ウィリアム・フェッセンデン、第26代アメリカ合衆国財務長官(* 1806年)
1881年 - フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ、オランダの王族(* 1797年)
1882年 - ジョゼフ・リウヴィル、数学者(* 1809年)
1893年 - ルーク・ショート、西部開拓時代のガンマン(* 1854年)
1894年 - ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、生理学者・物理学者(* 1821年)
1894年 - フィリップ、パリ伯(* 1838年)
1902年 - 長與專齋、医学者(* 1838年)
1914年 - ピョートル・ネステロフ、ロシア帝国のパイロット(* 1887年)
1924年 - 奥繁三郎、第12・14代衆議院議長(* 1861年)
1926年 - トーマス・栗原、映画監督(* 1885年)
1933年 - ファイサル1世、イラク王(* 1883年)
1935年 - 床次竹二郎、逓信大臣・鉄道大臣・内務大臣(* 1867年)
1944年 - 枝正義郎、映画監督(* 1888年)
1945年 - 川島義之、陸軍大臣(* 1878年)
1947年 - 2代目桃川若燕、講談師(* 1873年)
1949年 - リヒャルト・シュトラウス、作曲家(* 1864年)
1953年 - フレデリック・ヴィンソン、第53代アメリカ合衆国財務長官(* 1890年)
1954年 - カーティス・ウィルバー、第43代アメリカ合衆国海軍長官(* 1867年)
1954年 - アンドレ・ドラン、画家(* 1880年)
1956年 - オスカル・カウフマン、建築家(* 1873年)
1964年 - 中沢弘光、画家(* 1874年)
1965年 - ヘルマン・シュタウディンガー、化学者(* 1881年)
1965年 - ドロシー・ダンドリッジ、女優(* 1922年)
1967年 - 岩崎彦弥太、実業家(* 1895年)
1970年 - 藤井深造、実業家(* 1893年)
1971年 - 林彪、中国の政治家・軍人(* 1907年)
1974年 - ヴォルフガング・ヴィントガッセン、テノール歌手(* 1914年)
1978年 - パンチョ・ヴラディゲロフ、作曲家(* 1899年)
1978年 - リカルド・サモラ、サッカー選手(* 1901年)
1979年 - ジーン・セバーグ、女優(* 1938年)
1980年 - ウィラード・リビー、化学者(* 1908年)
1981年 - 湯川秀樹、物理学者(* 1907年)
1985年 - ジョン・フランクリン・エンダース、医学者(* 1897年)
1991年 - アレックス・ノース、作曲家(* 1910年)
1994年 - 東野英治郎、俳優(* 1907年)
1999年 - 村沢牧、政治家(* 1924年)
2000年 - 晴乃パーチク、漫才師(* 1926年)
2001年 - 串田正夫、水泳選手・シンクロナイズドスイミング指導者(* 1915年)
2003年 - レニ・リーフェンシュタール、映画監督・写真家(* 1902年)
2004年 - 水上勉、作家(* 1919年)
2004年 - 秋吉契里、シンガーソングライター
記念日・年中行事
国際識字デー (International Literacy Day)
1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育にまわす提唱をしたことを記念して、
ユネスコが制定。
白露(日本、2002年・2003年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が165度の時で、
野草に白い露が宿り始め、秋の気配が感じられ始めるころ。
ニューヨークの日
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・
【日記の最新記事】
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...
- 東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリ...


