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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年10月14日(火曜日)
「9月」がおわわりました。
「10月」。
「秋」もしずかに。
しずかに。ふかまりつつあります。
暗い朝の早朝には南天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高い。
金星に毎日「おはよう」のあいさつを
します。
早朝には
「秋の虫の音」がそぞろ聞こえます。
はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
鳴き声の合唱がきこえます。
毎朝の暗いうちの「音色」は。
毎日違います。
こおろぎの鳴き声が「ソロ」から「合唱」に
なってきました。
そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一匹一匹の
「こおろぎ」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。
虫たちも
「もっと深い秋」の季節にむけての
ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。
陽ののぼる時刻は遅くなりました。
そして
夕暮れははやくくなりました。
朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの05:30amにほんのり暗く明るい東空
です。
これからは太陽は。
「秋」そして「冬」に向かいます。
「秋」も「中秋」になりました。
あさは曇っていて。
さらに昼間でもまだまだ「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とても寒いです。
早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。
けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「秋」のひざしです。
ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。
真夏もおわり。
ゆたかなみのりの
「秋」の「9月」がはじまり。
そして「おわり」。「10月」。
このような。
「実りの秋」に向けて
「若実」をまもる
真夏の太陽から「木の実」をまもる
「ソフトフイルター」の役目を.
秋夏の朝の「おぼろくもりそら」が
しているようです。
自然とは。
とてもよくできたものです。
変幻自在でいて規則正しい。
なおかつにして。
自由が自在。
大気に漂う霞がごとし。
深い山の奥に住むという
仙人の心境が。
とてもよくわかります。
街路樹もそうそうたる。
羽振りのよい木々になってきました。
そして紅葉の秋をむかえようとしています。
街路樹は「落葉樹」がよいです。
街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。
夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
とどのつまり
四季のリズムをつくれません。
ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。
落葉の針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
あいません。
私の「大好き」な北原白秋の「からまつの詩」
の「からまつ」は
街路樹にはそぐいません。
やはり野におけ蓮華草と同じく。
「からまつ」も蓮華草と同じく華やかさとはかなさを
もっています。
秋の「からまつ」です。
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北原白秋
「水墨集」より
落葉松
-------------------------------
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
きりさめ
霧雨のかかる道なり。
やまかぜ
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
あさま ね
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
-------------------------------
木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
紅葉の「秋」は間近いです。
木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森の秋のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえがとてもとても
鮮烈です。
紅葉も「鮮烈」なことと見守ります。
街角の雑草も花はおわり。
夏の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
秋草に変貌して。
ますます姿を大きくしています。
けれども。
「秋風」もあり「遠慮がち」になりました。
雑草も。
秋草へと変貌しつつあります。
朝暗いうちは。
はださむい気が致します。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。
クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。真夏竹。
とおくからもみえます。
風にふかれる秋竹(あきたけ)の
みどりのいらかをかぜはやみ
あきの陽うつすやうつろひの
生まれし月日のはやいくとせ
地にも空にも
みどり葉ひらき
みどり木秋空
天高くひろがりけり
ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
ゆたかなりけり秋
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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
-------------------------------
平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------
平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は終わりました。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
-------------------------------
2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
------------------------------
成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
------------------------------
学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
-------------------------------
学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。
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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。
「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。
人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。
昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。
難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。
私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。
「良くなられていく」笑顔に。
心より感謝・感謝。
「今日は何の日」は
1947年 - チャック・イェーガーが操縦する
ロケット機ベルX-1が水平飛行で音速を突破
した日です。
(*
ベル X-1はアメリカの有人実験機で、
世界で初めて水平飛行で音速を突破すべく設計された
ロケット機です。)
++++++++++++++++++++++
ベルX-1開発経緯と音速突破まで。
第二次世界大戦の影響もあり、
1930年代から1940年代にかけてレシプロエンジンは急激に進化し、
それに伴い航空機の速度も右肩上がりに増加していきましたた。
しかし航空機の速度が700km/hを超えるあたりになると
プロペラの先端や翼上面の空気流が音速(マッハ 1)に近づき、
衝撃波が発生して空気の性質が激しく変化するようになります。
これに伴い
抗力が急増すると共に。
機体が異常な振動(バフェッティング)を起こし、
場合によっては操縦不能、空中分解ということもありましたた。
これがいわゆる音の壁です。
++++++++++++++++++++++
レシプロエンジンの場合結局「音速=マッハ1」。
これがスピードの限界であり、音速飛行は夢の話であったのです。
しかし1940年代になると、
各国でジェットエンジンが開発されたことにより、
音速飛行は現実味を帯びてきました。
アメリカのベル社は1942年にアメリカ初の
ジェット戦闘機XP-59を開発し、
1943年にはNACA(NASAの前身)に対して
強力なジェットエンジンさえあれば超音速機を製作することは
可能と表明していました。
++++++++++++++++++++++
しかし、超音速飛行が可能とは言われていたが
第二次大戦の影響で肝心の研究予算がなかなか降りず、
陸軍航空隊資材部から研究予算が降りたのは
1944年1月になってからでした。
これにあわせるように
NACAは高速飛行審議会を急遽設立致しました。
1944年3月にはNACAと
陸軍航空隊ライトフィールドの資材司令部技術部、
海軍航空局の3者が今後の方針について
検討をおこないました。
その席で陸軍は今すぐにでもマッハ1を超える航空機の開発を要求。
一方海軍はデータを取りながら慎重に開発を進める安全策を主張致しました。
その結果、陸軍と海軍は
それぞれ
別個に超音速機の開発をNACAと協力して
おこなっていくこととなりました。
++++++++++++++++++++++
陸軍は1944年5月に超音速実験機計画を最優先に指定し、
以下ダイブによる遷音速飛行、
P-80による遷音速飛行という3段構えで計画を進めていくことと致しました。
機体開発メーカーはノースアメリカン社とリパブリック社の2社が候補として挙がっていました。
けれども
この2社は超音速機の開発を行う余裕はなかったのです。
++++++++++++++++++++++
こうした中、11月にベル社の主任設計技師ロバート・ウッズは、
この計画の重要人物であった
イーズラ・コッチャー少佐に直接機体の製作を申し出て契約を取り付けました。
その後高速飛行審議会と航空技術補給本部のコッチャー少佐とベル社は
協議を重ね、1944年末には高速実験機計画 MX-524 の
主な仕様を決定致しました。
MX-524の当初の目標は、遷音速の研究で
超音速飛行も視野に入れておくというもので、
自力での離着陸を行えるなどの条件が含まれていました。
++++++++++++++++++++++
11月にベル社の主任設計技師ロバート・ウッズは、
この計画の重要人物であった
イーズラ・コッチャー少佐に直接機体の製作を申し出て契約を取り付けました。
その後高速飛行審議会と航空技術補給本部のコッチャー少佐とベル社は
協議を重ね、1944年末には高速実験機計画 MX-524 の
主な仕様を決定致しました。
しかしエンジンについて、ロケットエンジンに比べ
非力だが燃焼時間の長いジェットエンジンにするか、
ジェットエンジンに比べ強力だが燃焼時間の短いロケットエンジンにするかは
決まっていませんでした。
++++++++++++++++++++++
胴体の形状は、当時存在した
超音速飛翔体である12.7mm弾の形状をモデルとし、
これに翼をつけたような形状となっていました。
そのため風防も胴体と一体になっており、
視界は決していいものではなかった
のです。
++++++++++++++++++++++
XS-1
1・
XS-1
全長:9.42 m
全幅:8.53 m
全高:3.30 m
自重:3,171 kg
全備重量:5,550 kg
エンジン:XLR11-RM-3×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録: マッハ1.45
2・
その後 MX-524 は名称を
MX-653 に変更し、1945年には
XS-1 (eXperimental Supersonic-1) と名称が決定致しました。
3機の製造契約が正式にベル社と航空技術補給本部の間で結ばれました。
それと同時にこの計画全体が機密扱いに指定されました。
++++++++++++++++++++++
XS-1のエンジンは揉めに揉めた末ロケットエンジンに決定し、
リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11を使用することとなりました。
このロケットエンジンの推進剤は従来使用されていた硝酸とアニリンに比べ
安全性に優れる液体酸素とアルコールの組み合わせとなっていました。
しかしこのエンジンは膨大な燃料を消費するため、
自力での離陸を諦め、B-29からの発進へと方針が転換されました。
++++++++++++++++++++++
XS-1に搭載された
XLR11エンジンの正式名称はXLR11-RM-3です。
1基あたりの推力は680 kgf。
XS-1にはこれが4基装備されました。
エンジンは推力の調整ができずオンかオフの2通りしかありませんでした。
、4基のエンジンのオンとオフを調節することによって
4段階の調節は可能でした。
燃料搭載量は液体酸素が1,177リットル、アルコールが1,110リットルとなっており、
それぞれ主脚の前方と後方のタンクに装備されていました。
機体強度は18Gまで耐えられるという
異様なまでの強度を持ち合わせていました。
これは、音速に入ると機体がどのような挙動を起こすか
まったく見当もつかなかったためです。
しかしパイロットは18Gに耐えられないため、
無駄といえば無駄な強度といえます。
なおXS-1には射出座席などの脱出装置は装備されていませんでした。
++++++++++++++++++++++
XS-1の主翼平面形状は超音速飛行に適する後退翼ではなく
直線翼でした。
これはNACAが後退翼の利点を知らなかったためではなく、
当時まだ実績のなかった後退翼の使用をためらったためです。
アスペクト比(翼幅の2乗を主翼面積で割った値。細長さを示す)は
6.03とされました。
翼厚については結論が出ず、1号機と2号機で
別のタイプの主翼をつけることに決定致しました。
主翼は強度を持たせるために1枚板からの削りだしで作られました。
++++++++++++++++++++++
降着装置は当初ソリなども検討されたが、
結局普通の車輪に落ち着きました。
しかし機内スペースの問題から車輪はかなり短足となっています。
また、大きな降下速度ともあいまって車輪が故障する事故も少なからず発生しています。
++++++++++++++++++++++
飛行開始
1946年1月25日にXS-1はエンジンと燃料タンクの代わりのおもりを
積んでの初の滑空試験を行い、
操縦性や失速特性のテスト後、パインキャッスル飛行場に着陸致しました。
その後10回の滑空試験が行われたが、4回目の試験時に
左主脚が引っ込み左翼を破損、修理した後の5回目の試験でも
前脚が故障し機首を破損するという2度の事故に見舞われました。
滑空試験が終わった後1号機はニューヨークの工場に戻り、エンジンなどの装備が行われました。
++++++++++++++++++++++
動力飛行の試験はカリフォルニア州のマロック乾湖において
XS-1の2号機で行われる事となりました。
XLR11の点火は1946年の12月9日の通算15回目(2号機で5回目)
の飛行で初めて実施され、
2基のエンジンでマッハ0.75(のちにマッハ0.795と判明)まで加速し、
1947年1月17日には4基のエンジンすべてに点火してマッハ0.828を記録致しました。
同年4月11日には翼厚比の小さい主翼を装備した1号機の動力飛行がおこなわれました。
++++++++++++++++++++++
ベル社は当初から
マッハ0.8まで安全に操縦できる航空機の開発を求められていたが、
これで要求は満たされ、安全性も証明されたため
、XS-1は通算37回目の試験をもってベル社から
NACAと航空資材本部(旧航空技術補給本部)へ正式に譲渡されました。
XS-1はNACAと航空資材本部に渡った後に、
実験の進め方について協議が行われた。
NACAはデータを積み重ねながら音速に近づくべきとし、
航空資材本部は一気に音速突破してしまおうと主張した結果、
航空資材本部がXS-1の1号機を使用して、
NACAがXS-1の2号機を使用してそれぞれ別々に試験を行っていくことになりました。
++++++++++++++++++++++
チャック・イェーガー
航空資材本部はテストパイロットの中から志願者を募り、
その中からチャック・イェーガー大尉を抜擢、
その他に技術面の補佐としてジャック・リドレイ大尉、
予備のパイロットしてロバート・フーバー中尉を選定致しました。
一方 NACA のパイロットはハーバート・フーバーとハワード・リリーの 2 名に決定致しました。
また NACA で使用される
2 号機は耐火装備の改修が施され新型の燃料投棄装置などが装備されました。
++++++++++++++++++++++
航空資材本部は8月6日から滑空テストを開始し、
8月29日にはイェーガーによる初の動力飛行でマッハ 0.85 を記録。
2 回目の動力飛行試験は送信装置の故障から地上へのデータ送信ができなかったが、
後に機内の計器ではマッハ 0.9 を超えていたことが判明致しました。
XS-1 の試験は NACA と航空資材本部が別々に行っているのに対し、
母機仕様に改造された B-29 は 1 機しかなかったのです。
そのため NACA の試験は9月25日まで実施できず、
テストパイロットは XS-1 での飛行経験がなかったため、
結局 NACA の飛行試験もイェーガーが行いました。
++++++++++++++++++++++
10月に入って航空資材本部は本格的に音の壁に挑戦していくこととなりました。
10月10日には過去最高のマッハ 0.997 を記録。次
回の飛行で音速を超えることを決定致しました。
1947年10月14日、通算 50 回目の飛行で
イェーガーが搭乗する XS-1 は高度 6,100 m で
母機から切り離され、2 基のエンジンに点火して緩上昇に移行。
続いて残りの 2 基にも点火し、高度 10,670 m をマッハ 0.92 で通過。
高度 12,800 m に到達する前にエンジン 2 基をオフにして水平飛行に移り、
その後再びエンジンを 1 基オンにして。
計 3 基で水平飛行を行った。その結果マッハ 1.06 を記録、
人類初の有人超音速飛行とないました。
音速突破時には予想されてた衝撃波による振動もほとんど無く、
意外なほどにあっさりと音速を超えてしまいました。
この時イェーガーが機につけた愛称は
「グラマラス グレニス (Glamorous Glennis)」
(グレニスは彼の妻の名前)。
++++++++++++++++++++++
イェーガーは音速突破をおこなう 2 日前の 12 日の夜間に乗馬していたところ、
落馬し肋骨を骨折していた。イェーガーは当日、
痛む患部を隠しながら XS-1 に搭乗しようとしたが、XS-1
の搭乗口を閉めるには前かがみになる必要があり、
骨折している身には困難なことでした。
しかし、そのことが周りに知れればテストパイロットから降ろされることは明らかであったため、
イェーガーはリドレイ大尉にのみ事実を伝え、
どうすればいいか相談を致しました。
リドレイはモップの柄によって搭乗口を閉めることを提案し、
無事イェーガーは XS-1 の搭乗口を閉めることができました。
このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれています。
++++++++++++++++++++++
その後イェーガーは11月6日にはマッハ 1.36、
1948年3月26日にはマッハ 1.45 の XS-1 での
最高速度を記録致しました。
NACA が使用していた 2 号機も
1948年3月10日に音速を突破致しました。
しかしながら、音速突破の事実はしばらくの間公表されず、
一般に知れ渡るのは1947年12月にニューヨークタイムズなどが
トクダネとして発表した時でした。
しかしこの後も空軍(1947年9月18日に陸軍から独立)はノーコメントとし、
実際に事実が公表されたのは1948年6月15日になってからでした。
++++++++++++++++++++++
XS-1 は1948年にX-1に名称を変更されました。
音速突破後のX-1
音速を突破すると、基
本目標は音速飛行から最高高度27,430 m、
マッハ2へと切り替えられ、
それにあわせ1948年4月に空軍が新型のX-1を発注した。
新たに発注されたX-1は基本構造は同じものの目的により名称が異なり、
X-1A・X-1B・X-1C・X-1Dの4種類が開発されました。
X-1AとX-1Bは空力特性テスト、
X-1Cは超音速域における武装テスト、
X-1Dは空気加熱テストに使用されることになっていました。
これらの機は胴体を延長されており、
燃料搭載量が液体酸素1,893リットル、アルコール2,158リットルへと増量されていました。
一方NACAではX-1の2号機を改修し、
超薄翼のテストに使用されるX-1Eも開発されました。
発進母機はB-29からB-50へと変更されました。
++++++++++++++++++++++
X-1A
X-1A
全長:10.87 m
全幅:8.53 m
全高:3.25 m
自重:3,117 kg
全備重量:7,469 kg
エンジン:XLR11-RM-5×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録:マッハ 2.44
X-1Aは新型X-1シリーズ最速の機体である。
1953年2月14日に滑空試験を実施、2月21には動力飛行を実施しました。
X-1Aはマッハ2を目指すことができる唯一の空軍機として期待され、
その期待通り12月2日にはマッハ1.5、8日にはマッハ1.2を記録。
同月12日にはマッハ2.44を記録し、
海軍のD-558-IIが記録したマッハ2.005の記録を塗り替えました。
このX-1シリーズでの最高速記録を出したのも
チャック・イェーガーです。
なおX-1Aがマッハ2.44を記録した直後機体は左に傾き、
その後錐もみ状態で落下を始め、あわや墜落かという状態になったが、
高度8,800 mあたりで機体を立て直すことに成功し、墜落は免れました。
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マッハ2を突破すると今度は速度記録ではなく高度記録に挑戦し、
1954年8月に27,566 mを記録しました。
海軍が持つ25,370 mの記録を抜き世界記録を樹立しました。
(ただし非公式)。
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その後X-1AはNACAに移管され射出座席などを
装備する改造を受けたが、1955年8月の飛行で切り離し直後に
液体酸素が爆発したため機体は投棄されました。
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X-1 (航空機)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/X-1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
ベル X-1はアメリカの有人実験機で、世界で初めて水平飛行で音速を突破したロケット機である。
目次
1 開発経緯と音速突破まで
1.1 XS-1
1.2 飛行開始
1.3 チャック・イェーガー
2 音速突破後のX-1
2.1 X-1A
2.2 X-1B
2.3 X-1C
2.4 X-1D
2.5 X-1E
3 現存する機体など
4 関連項目
5 外部リンク
開発経緯と音速突破まで
第二次世界大戦の影響もあり、1930年代から1940年代にかけてレシプロエンジンは急激に進化し、それに伴い航空機の速度も右肩上がりに増加していった。しかし航空機の速度が700km/hを超えるあたりになるとプロペラの先端や翼上面の空気流が音速(マッハ 1)に近づき、衝撃波が発生して空気の性質が激しく変化するようになる。抗力が急増すると共に、機体が異常な振動(バフェッティング)を起こし、場合によっては操縦不能、空中分解ということもあった。これがいわゆる音の壁である。
レシプロエンジンの場合これがスピードの限界であり、音速飛行は夢の話であった。しかし1940年代になると、各国でジェットエンジンが開発されたことにより、音速飛行は現実味を帯びてきた。
アメリカのベル社は1942年にアメリカ初のジェット戦闘機XP-59を開発し、1943年にはNACA(NASAの前身)に対して強力なジェットエンジンさえあれば超音速機を製作することは可能と表明していた。しかし、超音速飛行が可能とは言われていたが第二次大戦の影響で肝心の研究予算がなかなか降りず、陸軍航空隊資材部から研究予算が降りたのは1944年1月になってからであった。これにあわせるようにNACAは高速飛行審議会を設立した。
1944年3月にはNACAと陸軍航空隊ライトフィールドの資材司令部技術部、海軍航空局の3者が今後の方針について検討をおこなった。その席で陸軍は今すぐにでもマッハ1を超える航空機の開発を要求。一方海軍はデータを取りながら慎重に開発を進める安全策を主張した。その結果、陸軍と海軍はそれぞれ別個に超音速機の開発をNACAと協力しておこなっていくこととなった。
陸軍は5月に超音速実験機計画を最優先に指定し、以下ダイブによる遷音速飛行、P-80による遷音速飛行という3段構えで計画を進めていくこととした。機体開発メーカーはノースアメリカン社とリパブリック社の2社が候補として挙がっていたが、この2社は超音速機の開発を行う余裕はなかった。こうした中、11月にベル社の主任設計技師ロバート・ウッズは、この計画の重要人物であったイーズラ・コッチャー少佐に直接機体の製作を申し出て契約を取り付けた。
その後高速飛行審議会と航空技術補給本部のコッチャー少佐とベル社は協議を重ね、1944年末には高速実験機計画 MX-524 の主な仕様を決定した。MX-524の当初の目標は、遷音速の研究で超音速飛行も視野に入れておくというもので、自力での離着陸を行えるなどの条件が含まれていた。しかしエンジンについて、ロケットエンジンに比べ非力だが燃焼時間の長いジェットエンジンにするか、ジェットエンジンに比べ強力だが燃焼時間の短いロケットエンジンにするかは決まっていなかった。胴体の形状は、当時存在した超音速飛翔体である12.7mm弾の形状をモデルとし、これに翼をつけたような形状となっていた。そのため風防も胴体と一体になっており、視界は決していいものではなかった。
XS-1
XS-1
全長:9.42 m
全幅:8.53 m
全高:3.30 m
自重:3,171 kg
全備重量:5,550 kg
エンジン:XLR11-RM-3×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録: マッハ1.45
その後 MX-524 は名称を MX-653 に変更し、1945年には XS-1 (eXperimental Supersonic-1) と名称が決定、3機の製造契約が正式にベル社と航空技術補給本部の間で結ばれた。それと同時にこの計画全体が機密扱いに指定された。
XS-1のエンジンは揉めに揉めた末ロケットエンジンに決定し、リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11を使用することとなった。このロケットエンジンの推進剤は従来使用されていた硝酸とアニリンに比べ安全性に優れる液体酸素とアルコールの組み合わせとなっていた。しかしこのエンジンは膨大な燃料を消費するため、自力での離陸を諦め、B-29からの発進へと方針が転換された。
XS-1に搭載されたXLR11エンジンの正式名称はXLR11-RM-3で、1基あたりの推力は680 kgf。XS-1にはこれが4基装備された。エンジンは推力の調整ができずオンかオフの2通りしかないが、4基のエンジンのオンとオフを調節することによって4段階の調節は可能である。燃料搭載量は液体酸素が1,177リットル、アルコールが1,110リットルとなっており、それぞれ主脚の前方と後方のタンクに装備されていた。
機体強度は18Gまで耐えられるという異様なまでの強度を持ち合わせていた。これは、音速に入ると機体がどのような挙動を起こすかまったく見当もつかなかったためである。しかしパイロットは18Gに耐えられないため、無駄といえば無駄な強度といえる。なおXS-1には射出座席などの脱出装置は装備されていなかった。
XS-1の主翼平面形状は超音速飛行に適する後退翼ではなく直線翼であった。これはNACAが後退翼の利点を知らなかったためではなく、当時まだ実績のなかった後退翼の使用をためらったためである。アスペクト比(翼幅の2乗を主翼面積で割った値。細長さを示す)は6.03とされた。翼厚については結論が出ず、1号機と2号機で別のタイプの主翼をつけることに決定した。主翼は強度を持たせるために1枚板からの削りだしで作られた。
降着装置は当初ソリなども検討されたが、結局普通の車輪に落ち着いた。しかし機内スペースの問題から車輪はかなり短足となっている。また、大きな降下速度ともあいまって車輪が故障する事故も少なからず発生している。
飛行開始
1946年1月25日にXS-1はエンジンと燃料タンクの代わりのおもりを積んでの初の滑空試験を行い、操縦性や失速特性のテスト後、パインキャッスル飛行場に着陸した。その後10回の滑空試験が行われたが、4回目の試験時に左主脚が引っ込み左翼を破損、修理した後の5回目の試験でも前脚が故障し機首を破損するという2度の事故に見舞われた。滑空試験が終わった後1号機はニューヨークの工場に戻り、エンジンなどの装備が行われた。
動力飛行の試験はカリフォルニア州のマロック乾湖においてXS-1の2号機で行われる事となった。XLR11の点火は1946年の12月9日の通算15回目(2号機で5回目)の飛行で初めて実施され、2基のエンジンでマッハ0.75(のちにマッハ0.795と判明)まで加速し、1947年1月17日には4基のエンジンすべてに点火してマッハ0.828を記録した。同年4月11日には翼厚比の小さい主翼を装備した1号機の動力飛行がおこなわれた。
ベル社は当初からマッハ0.8まで安全に操縦できる航空機の開発を求められていたが、これで要求は満たされ、安全性も証明されたため、XS-1は通算37回目の試験をもってベル社からNACAと航空資材本部(旧航空技術補給本部)へ正式に譲渡された。
XS-1はNACAと航空資材本部に渡った後に、実験の進め方について協議が行われた。NACAはデータを積み重ねながら音速に近づくべきとし、航空資材本部は一気に音速突破してしまおうと主張した結果、航空資材本部がXS-1の1号機を使用して、NACAがXS-1の2号機を使用してそれぞれ別々に試験を行っていくことになった。
チャック・イェーガー
航空資材本部はテストパイロットの中から志願者を募り、その中からチャック・イェーガー大尉を抜擢、その他に技術面の補佐としてジャック・リドレイ大尉、予備のパイロットしてロバート・フーバー中尉を選定した。一方 NACA のパイロットはハーバート・フーバーとハワード・リリーの 2 名に決定した。また NACA で使用される 2 号機は耐火装備の改修が施され新型の燃料投棄装置などが装備された。
航空資材本部は8月6日から滑空テストを開始し、8月29日にはイェーガーによる初の動力飛行でマッハ 0.85 を記録した。2 回目の動力飛行試験は送信装置の故障から地上へのデータ送信ができなかったが、後に機内の計器ではマッハ 0.9 を超えていたことが判明した。XS-1 の試験は NACA と航空資材本部が別々に行っているのに対し、母機仕様に改造された B-29 は 1 機しかなかった。そのため NACA の試験は9月25日まで実施できず、テストパイロットは XS-1 での飛行経験がなかったため、結局 NACA の飛行試験もイェーガーが行った。10月に入って航空資材本部は本格的に音の壁に挑戦していくこととなる。10月10日には過去最高のマッハ 0.997 を記録。次回の飛行で音速を超えることを決定する。
1947年10月14日、通算 50 回目の飛行でイェーガーが搭乗する XS-1 は高度 6,100 m で母機から切り離され、2 基のエンジンに点火して緩上昇に移行。続いて残りの 2 基にも点火し、高度 10,670 m をマッハ 0.92 で通過した。高度 12,800 m に到達する前にエンジン 2 基をオフにして水平飛行に移り、その後再びエンジンを 1 基オンにして計 3 基で水平飛行を行った。その結果マッハ 1.06 を記録、人類初の有人超音速飛行となった。音速突破時には予想されてた衝撃波による振動もほとんど無く、意外なほどにあっさりと音速を超えてしまったという。この時イェーガーが機につけた愛称は「グラマラス グレニス (Glamorous Glennis)」(グレニスは彼の妻の名前)。
イェーガーは音速突破をおこなう 2 日前の 12 日の夜間に乗馬していたところ、落馬し肋骨を骨折していた。イェーガーは当日、痛む患部を隠しながら XS-1 に搭乗しようとしたが、XS-1 の搭乗口を閉めるには前かがみになる必要があり、骨折している身には困難なことであった。しかし、そのことが周りに知れればテストパイロットから降ろされることは明らかであったため、イェーガーはリドレイ大尉にのみ事実を伝え、どうすればいいか相談をした。リドレイはモップの柄によって搭乗口を閉めることを提案し、無事イェーガーは XS-1 の搭乗口を閉めることができた。このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれている。
その後イェーガーは11月6日にはマッハ 1.36、1948年3月26日にはマッハ 1.45 の XS-1 での最高速度を記録した。NACA が使用していた 2 号機も1948年3月10日に音速を突破した。しかしながら、音速突破の事実はしばらくの間公表されず、一般に知れ渡るのは1947年12月にニューヨークタイムズなどがトクダネとして発表した時であった。しかしこの後も空軍(1947年9月18日に陸軍から独立)はノーコメントとし、実際に事実が公表されたのは1948年6月15日になってからであった。
XS-1 は1948年にX-1に名称を変更された。
音速突破後のX-1
音速を突破すると、基本目標は音速飛行から最高高度27,430 m、マッハ2へと切り替えられ、それにあわせ1948年4月に空軍が新型のX-1を発注した。新たに発注されたX-1は基本構造は同じものの目的により名称が異なり、X-1A・X-1B・X-1C・X-1Dの4種類が開発された。X-1AとX-1Bは空力特性テスト、X-1Cは超音速域における武装テスト、X-1Dは空気加熱テストに使用されることになっていた。これらの機は胴体を延長されており、燃料搭載量が液体酸素1,893リットル、アルコール2,158リットルへと増量されていた。一方NACAではX-1の2号機を改修し、超薄翼のテストに使用されるX-1Eも開発された。発進母機はB-29からB-50へと変更された。
X-1A
X-1A
全長:10.87 m
全幅:8.53 m
全高:3.25 m
自重:3,117 kg
全備重量:7,469 kg
エンジン:XLR11-RM-5×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録:マッハ 2.44
X-1Aは新型X-1シリーズ最速の機体である。1953年2月14日に滑空試験を実施、2月21には動力飛行を実施した。
X-1Aはマッハ2を目指すことができる唯一の空軍機として期待され、その期待通り12月2日にはマッハ1.5、8日にはマッハ1.2を記録。同月12日にはマッハ2.44を記録し、海軍のD-558-IIが記録したマッハ2.005の記録を塗り替えた。このX-1シリーズでの最高速記録を出したのもチャック・イェーガーである。なおX-1Aがマッハ2.44を記録した直後機体は左に傾き、その後錐もみ状態で落下を始め、あわや墜落かという状態になったが、高度8,800 mあたりで機体を立て直すことに成功し、墜落は免れた。
マッハ2を突破すると今度は速度記録ではなく高度記録に挑戦し、1954年8月に27,566 mを記録、海軍が持つ25,370 mの記録を抜き世界記録を樹立した(ただし非公式)。
その後X-1AはNACAに移管され射出座席などを装備する改造を受けたが、1955年8月の飛行で切り離し直後に液体酸素が爆発したため機体は投棄された。
X-1B
X-1B
寸法と重量: X-1A に同じ
エンジン:XLR11-RM-9×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録:マッハ 1.94
X-1Bは新型X-1シリーズの新規製造組の中で最も完成が遅く、1954年9月に初の滑空試験を、10月に初の動力飛行を実施した。空軍の超音速テストパイロットの訓練用として使用される予定であったが、1954年12月にNACAへ移管され、空力加熱などの実験に使用されることとなった。
X-1Bはニール・アームストロングが搭乗した1958年1月の飛行の後、検査の結果液体酸素タンクに亀裂が見つかったため退役となり、現在では国立アメリカ空軍博物館に展示されている。
[編集] X-1C
X-1Cは超音速飛行時における武器発射テストを目的に開発が行われた。しかし発注後間もなく、モックアップの段階においてXP-86戦闘機が緩降下で音速を突破し、試験目的が失われたためにキャンセルされた。計画では、機首などに固定武装をいくつか装備し、主翼と胴体下に安定フィンを追加した形状となっていた。
[編集] X-1D
X-1D
X-1A に同じ
最高速度記録:記録なし
X-1Dは新型X-1シリーズの中で最も早く登場した機体で、機体番号は#48-1386。燃料系統などに改良が加えられていた。投下母機はB-50となっている。1951年7月24日にロジャー乾湖で、初の滑空試験を実施した。しかしこの試験の着陸時に前脚を破損、その後修理され同年8月に初のロケット動力飛行をおこなったが今度は切り離し前に高圧窒素タンクの圧力が低下していることが判明。テストは中断され、燃料の投棄がはじめられたところで液体酸素が爆発、破棄、と事故続きの運の悪い機体であった。
X-1E
全長:9.45 m
全幅:6.96 m
全高:3.30 m
自重:3,103 kg
全備重量:6,682 kg
エンジン:LR8-RM-5×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録:マッハ 2.24
X-1Eは他の新型X-1シリーズと異なり、XS-1の2号機から改修された機体である。1951年末から改修が開始され1955年11月末に完成した。主翼を翼厚比4%の超薄翼に形状変更し、コクピットからの前方視界の改善、射出座席の装備などがなされた。エンジンはXLR11の改良型であるLR8-RM-5に替えられ、X-1AとX-1Dの爆発事故の経験から安全性は徹底的に見直された。
初の滑空試験は1955年12月12日に行われ、その3日後の15日に初の動力飛行が行われた。
X-1Eは当初マッハ2.5を目標としていたが後にマッハ3に目標変更され、安定性を増すためのフィンを装備するなど各種改良が行われ、燃料も新燃料にしてテストが行われたが、テストの結果燃料タンクに亀裂が発見されたためマッハ3で飛行することなく退役となってしまった。
現在ではエドワーズ空軍基地にあるNASAのドライデン飛行研究センターに展示されている。
現存する機体など
スミソニアン航空宇宙博物館に展示されているベルX-1
交通科学博物館に展示されているベルX-1のエンジン現在X-1の1号機はスミソニアン博物館の一つである、国立航空宇宙博物館に展示されている。一方、大阪・弁天町の交通科学博物館にはX-1のロケットエンジンの実物が展示されている。
関連項目
フランク・エベレスト - パイロットの1人。
ドキュメンタリー『ザ・ライト・スタッフ』 トム・ウルフ 著
映画『ライトスタッフ』(The Right Stuff、1983年米)
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10月14日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8814%E6%97%A5
できごと
1066年 - ヘースティングスの戦い。
1806年 - イエナ・アウエルシュタットの戦い。
1872年 - 日本の鉄道開業(新橋(汐留現廃止)〜横浜(現桜木町)間)。
1873年 - 五節句を廃止し祝祭日を制定。
1896年 - 台湾総督に陸軍中将乃木希典が就任。
1900年 - フロイトの『夢判断』が出版される。
1905年 - 登山家・小島烏水らが日本初の山岳会を結成。現在の日本山岳会。
1914年 - 日本海軍がドイツ領南洋諸島の占領を完了。
1921年 - 鉄道開業50年を記念して東京駅北口に
鉄道博物館が開館(東京神田にあった交通博物館の前身)。
1922年 - 監獄を「刑務所」に改称。
1923年 - トルコ革命で首都をアンカラに移すことが決定。
1926年 - A・A・ミルン作の童話『クマのプーさん』が発売。
1933年 - ドイツが国際連盟・ジュネーブ軍縮会議から脱退。
1938年 - 閣議(近衛文麿首相)が国際連盟との協力関係終了を決定する。
1943年 - 日本占領下のフィリピンで第二共和国発足。
1947年 - チャック・イェーガーが操縦するベルX-1が水平飛行で音速を突破。
1947年 - GHQの「皇族の財産上における特権の剥奪」指令により
11宮家51名が皇籍を離脱する。
1950年 - トルーマン・アメリカ大統領がウェーク島でマッカーサー元帥と会談。
1951年 - ルース台風が上陸。本州各地に大被害。死者行方不明943人。
1952年 - 日本父母と先生全国協議会(現在の日本PTA全国協議会)が結成大会。
1953年 - 日本共産党書記長・徳田球一が北京で客死。2年後に公表。
1958年 - 東京タワー竣工。
1963年 - 元首相の吉田茂が政界引退を表明。
1964年 - マーティン・ルーサー・キングのノーベル平和賞受賞が決定。
1964年 - ニキータ・フルシチョフ失脚。
1966年 - 相次ぐ不祥事に対して社会・民社・公明・共産4党の院内共闘が成立する。
1968年 - メキシコオリンピックの陸上男子100m決勝で
ジム・ハインズが9.9秒を記録。人類初の9秒台。
1974年 - 巨人軍長嶋茂雄、引退試合。「わが巨人軍は永久に不滅です」と述べる。
1977年 - 奈良筆が伝統工芸品に指定される。
1981年 - 『うる星やつら』アニメ化。
1982年 - ソウルで統一協会が1万人参加の「集団結婚式」を開催。日本から3千組が参加。
1982年 - 大阪にコンサート専用のザ・シンフォニーホールが開館。
1983年 - 東北大学附属病院で日本初の体外受精児(試験管ベビー)が誕生。
1987年 - 鳥取県のJR西日本若桜線(郡家〜若桜19.2km)が
第三セクター・若桜鉄道に転換。
1989年 - 病気療養中の田中角榮元首相が次期衆議院選に出馬しないことを発表、
政界を引退。
1989年 - 「オレたちひょうきん族」放送終了。
1991年 - 橋本龍太郎蔵相が証券・金融不祥事と富士銀行不正融資事件への
元秘書の関与等で辞任する。
1992年 - 金丸信衆議院議員が東京佐川急便からの
5億円違法献金疑惑で議員を辞職、政界を引退。
1994年 - 札幌市営地下鉄東豊線豊水すすきの駅〜福住駅間が開業。
1994年 - ノーベル文学賞を受賞した作家の大江健三郎が文化勲章受章を辞退する。
1998年 - 「祝日法」改正法案(ハッピーマンデー法案)が
参議院で可決・成立。成人の日・体育の日が1月・10月の第2月曜日に。
1998年 - 改正議院証言法が参議院で可決・成立する
(証人喚問の写真撮影やテレビ中継を条件付きで解禁)。
1999年 - 住友銀行とさくら銀行が全面提携
2000年 - 首都圏共通ストアードフェアシステム・パスネット運用開始。
2005年 - 郵政民営化法案が参議院にて可決し、法案が成立する。
2006年 - 新日本プロレスのヒールユニット
「G・B・H」が越中詩郎・真壁刀義・天山広吉によって結成された。
2007年 - 東京神田の交通博物館が、大宮に移転。鉄道博物館がオープン。
誕生日
1585年 - ハインリヒ・シュッツ、作曲家(+ 1672年)
1633年 - ジェームズ2世、イングランド王(+ 1701年)
1712年 - ジョージ・グレンヴィル、第8代英国首相(+ 1770年)
1784年 - フェルナンド7世、スペイン王(+ 1833年)
1840年 - フリードリッヒ・コールラウシュ、物理学者(+ 1910年)
1841年 - ドミートリイ・ピーサレフ、文藝評論家(+ 1868年)
1857年 - 陸羯南、政治評論家、新聞記者(+ 1907年)
1864年 - 大林芳五郎、実業家(+ 1916年)
1865年 - 岩崎久弥、実業家、第3代三菱財閥主宰(+ 1955年)
1865年 - 竹越與三郎、衆議院議員、貴族院議員、評論家(+ 1950年)
1867年 - 正岡子規、俳人(+ 1902年)
1871年 - アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、作曲家(+ 1942年)
1873年 - レイ・ユーリー、陸上競技選手(+ 1937年)
1882年 - エイモン・デ・ヴァレラ、初代アイルランド首相・第3代大統領(+ 1975年)
1888年 - キャサリン・マンスフィールド、小説家(+ 1923年)
1890年 - ドワイト・D・アイゼンハワー、第34代アメリカ合衆国大統領(+ 1969年)
1893年 - リリアン・ギッシュ、俳優(+ 1993年)
1911年 - レ・ドク・ト、政治家(+ 1990年)
1917年 - トニー谷、コメディアン(+ 1987年)
1918年 - 塚本博睦、元プロ野球選手
1921年 - 月丘夢路、俳優
1923年 - 茂山千之丞、狂言師
1927年 - ロジャー・ムーア、俳優
1927年 - トーマス・ルックマン、社会学者
1930年 - モブツ・セセ・セコ、ザイール2代大統領(+ 1997年)
1933年 - 稲嶺惠一、元沖縄県知事
1933年 - 棟方巴里爾(棟方志功の子)、俳優(+ 1998年)
1934年 - 志太勤、経営者(シダックス創業者)
1938年 - 柿原彬人、経営者(テクモ創業者)
1939年 - 奥田務、経営者(大丸社長)
1939年 - ラルフ・ローレン、ファッションデザイナー
1940年 - クリフ・リチャード、ミュージシャン
1941年 - 白石冬美、声優
1942年 - 原田直之、民謡歌手
1943年 - 実川幸夫、政治家
1944年 - 峰崎直樹、政治家
1945年 - 桑原豊、政治家
1946年 - 松浪健四郎、政治家
1947年 - 福田吉孝、経営者(アイフル創業者・社長)
1948年 - 宗次徳二、経営者(CoCo壱番屋創業者・社長)
1949年 - 佐藤陽子 (バイオリニスト)
1950年 - 中村歌六(五代目)、俳優
1950年 - チャーリー・コーセイ、歌手
1953年 - 渡辺香津美、ジャズギタリスト
1953年 - 黄川田徹、政治家
1955年 - 奥慶一、作曲家
1956年 - アレック・ジョン・サッチ、ミュージシャン(Bon Jovi)
1957年 - 中谷元、政治家
1958年 - J.B.おるが、ミュージシャン
1959年 - 柴田よしき、作家
1960年 - 石原隆、テレビ・プロデューサー
1961年 - 熊谷真菜、作家、フードマーケティングデザイナー
1962年 - 柿辰丸、俳優
1964年 - 旭道山和泰、元関取、元衆議院議員
1964年- 有賀啓雄、作曲家
1965年 - 鈴木重子、歌手
1965年 - 小林良平、俳優
1965年 - 畠山智行、俳優
1965年 - 会田誠、現代美術家
1966年 - 入船陽介、ミュージシャン
1968年 - 吉村祥子、レスリング
1970年 - 永作博美、女優
1970年 - 加藤貴子、女優
1970年 - 芳賀絵巳子、女優
1970年 - トニー・ミッチェル、元プロ野球選手
1971年 - 杉浦美雪、タレント(元おニャン子クラブ)
1972年 - 高木浩之、プロ野球選手(埼玉西武ライオンズ)
1973年 - 堺雅人、俳優
1973年 - スティーブン・ブラッドバリー、ショートトラックスケート
1974年 - ナタリー・メインズ 、ミュージシャン
1975年 - フロイド・ランディス、自転車レーサー
1975年 - 石川多映子、ソフトボール選手
1975年 - 海原やすよ、漫才師
1975年 - 里中茶美、歌手
1976年 - 岩沢厚治、ミュージシャン(ゆず)
1976年 - 不動裕理、ゴルファー
1976年 - 剱持たまき、女優
1976年 - アンドレアス・ビドヘルツル、ノルディックスキージャンプ
1977年 - 内田潤、サッカー選手:アルビレックス新潟
1977年 - 海本幸治郎、サッカー選手
1978年 - しまおまほ、漫画家・イラストレーター、作家・島尾敏雄の孫
1978年 - アッシャー、歌手
1978年 - 木下理樹、ミュージシャン(ART-SCHOOL)
1978年 - 武田久、プロ野球選手(北海道日本ハムファイターズ)
1979年 - 岡峰光舟、ミュージシャン(THE BACK HORN)
1979年 - 田村千秋、タレント
1979年 - 水木ゆうな、女優
1979年 - 牧野ステテコ、お笑い芸人
1980年 - 林丈統、サッカー選手
1980年 - 石井あみ、タレント
1980年 - 坂口真弓(少年少女)、お笑い芸人
1982年 - 東加奈子、ファッションモデル
1982年 - ASOBU、ファッションモデル
1983年 - 新田千尋、舞台女優
1984年 - 伊藤政氏、ジャニーズ
1984年 - 石井沙羅、タレント
1984年 - かすみ果穂、AV女優
1985年 - 慶松あや、タレント
1986年 - 土方みなみ、タレント
1986年 - 福愛美、タレント
1986年 - 岡田光、俳優、ファッションモデル
1987年 - 荒川雄太、プロ野球選手(福岡ソフトバンクホークス)
1987年 - 滝裕可里、タレント
1988年 - ジャレッド・エラリオ、野球選手
1989年 - 川又堅碁、サッカー選手
忌日
1189年(文治5年9月3日) -
藤原泰衡、奥州藤原氏第4代当主(* 1155年)
1256年(康元元年9月25日) -
藤原頼嗣、鎌倉幕府第5代将軍、最後の摂家将軍(* 1239年)
1704年(宝永元年9月16日) -
島津綱貴、島津氏第20代当主、薩摩藩の第3代藩主(* 1650年)
1836年(天保7年9月5日) - 最上徳内、江戸時代中後期の探検家(* 1754年)
1886年(明治19年) - 本因坊秀甫、棋士(* 1838年)
1945年 - 本居長世、童謡作曲家(* 1885年)
1946年 - ミスワカナ、漫才師(* 1910年)
1953年 - 徳田球一、政治家、日本共産党書記長(* 1894年)
1957年 - 水谷日昇、僧侶(* 1879年)
1969年 - 羽黒山政司、大相撲第36代横綱(* 1914年)
1990年 - レナード・バーンスタイン、作曲家・指揮者(* 1918年)
1992年 - 玉川良一、俳優・コメディアン(* 1924年)
1995年 - イーディス・パージター、作家(* 1913年)
2002年 - 日野啓三、作家(* 1929年)
記念日
鉄道の日(日本)
明治5年9月12日 (旧暦)(1872年)に、
新橋駅(後の汐留貨物駅・現在廃止)〜
横浜駅(現在の根岸線桜木町駅)間に日本で初めての鉄道が正式開業したことに由来。
歩くと1日かかった新橋〜横浜間を53分で走った。
「やえもん」の愛称で知られる1号機関車は現在、さいたま市の鉄道博物館にある。
1922年に日本国有鉄道が「鉄道記念日」として制定。
「鉄道記念日」のままでは国鉄色が強いということで、
1994年に運輸省(現在の国土交通省)の提案により
「鉄道の日」と改称し、JR以外の民間鉄道も巻き込んだ記念日となった。
クマのプーさん原作デビューの日
世界中で愛されている「クマのプーさん」の原作が発売された日
(1926年10月14日)を記念日として制定したのは
「ウォルト・ディズニー・カンパニー株式会社」。
プーさんとゆかいな仲間達が楽しく暮らす100エーカーの森にちなみ、
環境・森林保護を考える日としている。
プラレールの日(日本)
1997年に制定され、トミー(現タカラトミー)より
「特別限定復刻版ちんちんでんしゃ」が発売された。
毎年10月14日にはこれを記念して限定復刻版が発売される。
PTA結成の日(日本)
1952年、PTAの全国組織、
日本父母と先生全国協議会(現在の日本PTA全国協議会)が結成されたことに由来する。
PTAはアメリカで生まれた組織で、
教師と両親が協力して子どもたちの健全な育成を図ることを目的としている。
世界標準の日
国際標準化機構(ISO)と国際電気標準会議(IEC)が制定。
世界標準を策定した人たちに感謝し、労をねぎらう日。
年中行事
毎年10月(神無月)は祭り月とも呼ばれ、
特に月の祭礼日である
14、15日付近には日本各地で様々な祭りが催されている。
人形供養祭(日本)
毎年10月14日に日本各地のの寺、神社で人形を供養する行事が行われている。
子供たちをはじめ、市民に愛され親しまれた人形が壊れたり、
不要になったものを持参して供養をすることで人形に感謝の心を捧げることを目的としている。
どぶろく祭り(日本)
岐阜県白川村の白川八幡宮では毎年10月14日から翌15日にかけて、
どぶろく祭りを実施している。
かつて白川郷は、平家の落人のかくれやと言われ、
古くから外との交渉の少ない土地柄であったため、
村人の心をいやすものは酒以外にはなく、
粟・稗の雑穀類で地酒をつくっていた。
一年に一度のこの祭りでは、参拝客にどぶろくを振舞っている。
灘のけんか祭り(日本)
兵庫県姫路市白浜町の松原八幡神社で毎年、
定例の祭礼日である10月14日、15日に行われている。
古めかしい神輿をぶつけ合う特殊な神事によって
、天下の奇祭だとか、全国の数ある「けんか祭り」の中でも
最大規模の祭りであるといわれ、
すでに戦前から播磨を代表する祭りとして知られていた。
西条祭り(日本)
愛媛県西条市で毎年10月14日よ
り石岡神社、伊曽乃神社、飯積神社の三社で行われている祭礼。
三社で奉納する屋台の総数はあわせて120台以上にのぼり、
全国でも最大規模の祭礼と言われている。
運営は行政に頼らず氏子中心で行われる。
他地方の祭り好きの例に漏れず
この地方でも祭りは盆・正月よりも大切な行事とされ、
これを象徴する顕著な例として
毎年発行される西条祭りのカレンダーでは 祭りのある10月から暦が始まっている。
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・
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