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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月3日(水曜日)
あと「28日そこそこ」で「来年」になります。
「12月」の「冬」です。
今は「冬」です。
秋には
「金木犀:きんもくせい」花を咲かせました。
日々ますます花をさかせていました。
「実りの花」。
「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きました。
「銀木犀:きんもくせい」も咲きました。
「金木犀:きんもくせい」の花は黄金色です。
「銀木犀:きんもくせい」の花は「プラチナ色」です。
かおりも全く違います。
「金木犀:きんもくせい」より。
「銀木犀:きんもくせい」は10日遅れで咲きます。
今は晩秋がおわり「冬」。
「銀木犀:きんもくせい」も「銀木犀:きんもくせい」も
はるかかなたに。
「花」はおわりました。
そして。
「木犀:もくせい」は今。
冬越しの準備をしています。
「木犀:もくせい」は常緑樹です。
「冬」になると。
「葉色」と「葉のあつさ」がかわります。
「木枯らしに耐える厚さ」になります。
山茶花のつぼみがみえます。
「やぶつばき」のつぼみがみえます。
「金木犀:きんもくせい」は不思議な木です。
「金木犀:きんもくせい」の真下では何も
「金木犀:きんもくせい」の花の香(はなのか)
はしません。
遠く離れると「香ります」。
今は「冬」。
はるか昔に花はおわりました。
そしてはるか昔に「香り」もおわりました。
けれども。
「花」こそみえませんが。
「金木犀:きんもくせい」「銀木犀:きんもくせい」
の芳香が。
いまなおとくとくと。
遠くただよっているかのごとくです。
今は晩秋から冬。「木犀:もくせい」は元気です。
「木犀:もくせい」は。
「椿」のように花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*がありません。
「落花生」のような「木」です。
*
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C・
イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の標識には"Fermata"の表示があります)。
音楽美学の世界では。
絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」―つまり「初め」と「終わり」―があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。
そこで音楽の終わりを意味致しました。
時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。
付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。
「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。
ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が。
縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は。
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。
フェルマータ"fermata"。
そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
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旧暦では「11月」から「冬」です。
だから今現在は。
深まり行く「晩秋」はおわり。
「冬」です。
今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえました。
急速に。
かけあしで「さむくなってきました」。
今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりにたくさんのたくさんの
星をみました。
そして天井の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。
地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。
空気のすんんでいるからでしょう。
「天高く」とはなるほどと考えます。
「木枯らし」の合唱も。
なかなかすてきです。
ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。
そして「12月」になり
「木枯らし」の鳴き声は「アリア」
次第に出番が多くなりました。
寒い中でも
「極めて大きな声でないている」
「木枯らし」が
「1-2匹」はいるのが不思議です。
山茶花の上空でないています。
そぞろ そぞろに。
静かながらに。
「12月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。
ひそやかながらもあきらかに。
「冬将軍」の気配にあと押しされて。
「しずかな初冬」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。
昼間はまだあたたかい
小春の陽射しを感じることも
あります。
五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうおわりました。
「8月」もおわりました。
夏はおわりました。
そして
「あきの「秋」「9月」がおわりました。
中秋の「10月」がおわりました。
「11月」です。
そして「12月」。
雪国の冬です。
そして。
「今年も残す所「1ヶ月」を
すごそうとしています。
12月の初冬の気配が
あっというまに。
冬の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「初冬」の気配がうつろいていく。
「井戸のつるべ」がおちるようです。
「冬の12月」。
ふかまりゆく
「初冬からの冬将軍の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。
そしてさらに。
初冬そしてさらに。
「もっと深い冬」のピアニッシモppで。
しのびよる深い冬の気配が
かんじられます。
朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。
空にはそらいろとピンクのレースのような
あやにしきの「くれゆくあきいろ」が感じられます。
冬陽射し(ひさし)やさしき秋。
冬空にも地にも天高くはれ。
冬の大気のひそみかくれ。
冬そらにみちてあふれれば。
冬吐息(ためいき)となり。
冬吐息が霧雨か霞になり。
冬おりてくるような感じです。
冬「冬はふかまりゆく」気配
になりました。
「10月おわりました。」
そして「11月」「深まる秋」になりました。
冬なお「力強い」の木々のめぶきは
初冬の息吹から深い冬への息吹への。
変化(へんげ)を感じます。
早朝は「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。
百姓のうまれなので「冷冬」が心配です。
街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
中秋の萌黄色から中秋の若葉そして
晩秋のあおい「木」にかわりました。
そしてあきのあおい「木」は。
「実りの秋」のおとづれを。
そしてさらなる「秋の深まり」を。
そしていま冬。
いま冬をむかえようとしてています。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。
冬山椒(さんしょう)の木の芽が
冬にも若葉はそだち。
冬若葉は冬の若枝となり。
冬若枝は天高くすこやかにのび。
冬のふかまりにますますすこやかに。
冬山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
冬空に燃えるが如くの炎葉です。
さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる
冬深まりたり
冬空たかく
冬あやにしき
冬みどり木
冬さんしょう木
冬陽をあびてかがやけり
冬いざいまこそは
冬金色(かがね)にかわり
冬赤き秋空に燃えたたむ
冬さんしょう木
冬もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
冬わかば葉はいずるは花ならむ
冬(ふゆ)こす枝は幹ならむ
冬いざいまこそは
冬空(そら)たかくもえたたむ
冬金色(こがねいろ)なる
冬さんしょう木
冬(ふゆ)深まれり
山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。
冬ふかく草を浮かべる水面(おも)に
冬めだかのむれのひかりたり
冬むれておよげるひめだかの
冬みずのなかなるちいさないのち
冬みずのなかなるおおきないのち
冬みのりてあまたにとほときいのちこそ
冬いざみずもにうつしはぐくまむ
けれども
早朝は本当にはだ寒いのです。
小さなふゆみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなふゆみつけたから
大きな大きなふゆみつけたは
ちょっと「こころしずまる気」がします
「初冬」です
「冬」になります。
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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)
は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>
平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
-------------------------------
9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
-------------------------------
10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------
11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
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12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
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2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。
「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。
人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。
昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。
難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。
私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。
「良くなられていく」笑顔に。
心より感謝・感謝。
「今日は何の日」は
シェーンベルクやベルクと並んで
新ウィーン楽派の中核メンバーであり。
音列技法は、しばしば非常に手が込んでいる。
12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ。
3つのグループが互いに互いの変形であるかの
ように関連づけられている。
作品の統一感はそこにあり。
しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されている。
一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。
「12音」の作曲家」
1883年 - アントン・ヴェーベルン、作曲家(+ 1945年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern,
1883年12月3日 - 1945年9月15日)は。
オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者です。
ウェーベルンとも書かれます。
シェーンベルクやベルクと並んで
新ウィーン楽派の中核メンバーでありました。
なおかつ20世紀前半の作曲家として
最も前衛的な作風を展開致しました。
このため、生前は顧られる機会がほとんどありませんでした。
戦後の前衛音楽勃興の中で再評価されることにより。
世界的に多くの作曲家に影響を与えるに至りました。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
の生涯
生涯
オーストリア帝国の首都ウィーンに生まれました。
ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭です。
正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン
(Anton Friedrich Ernst von Webern)です。
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webern。
作曲者自身はミドルネームを公式には使いませんでした。
1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)。
貴族のみに許された"von"を姓から外しました。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
父親は成功した鉱山技師として
オーストリア帝国各地を転々としておりました。
このためヴェーベルンは少年時代を
グラーツやクラーゲンフルトなどに過ごしました。
音楽を愛好する家庭環境に育ちました。
1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事
致しました。
ハインリヒ・イザークの
《コラリス・コンスタンティヌス》に
関する論文を提出して学位を得ました。
古楽のポリフォニー様式への関心が
後のウェーベルン自身の作風に大きな影響を与えています。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続けました。
1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって
独立を許されました。
シェーンベルク門下のベルクは
その後のウェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしています。
音楽家として独立してからは、
イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハ
などで指揮者として活動致しました。
それからウィーンに戻りましたた。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
は。
第一次世界大戦後は、シェーンベルクを
輔佐して私的演奏協会を設立致しました。
1922年から1934年まで。
ウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、
BBC交響楽団にも定期的に客演を続けました。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernは。
盟友ベルクが1935年に急逝すると。
遺された《ヴァイオリン協奏曲》の
イギリス初演で指揮を執りました。
その模様は、初演の
ヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、
2度にわたってCDに復刻されています。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernは
1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると。
ウェーベルンの音楽は
「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押されました。
これにより演奏活動で生計を立てることは困難になりました。
このため契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの
編集人や校閲係を引き受けざるを得なかったのです。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
1945年に終戦後に作曲活動を再開する思惑から。
ウィーンを去って。
ザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難
致しました。
しかし娘婿が元ナチ親衛隊であり。
当時は闇取引に関与していたのが
落とし穴となりました。
同年9月15日、喫煙のために。
ベランダに出てタバコに火をつけたところを。
オーストリア占領軍の米兵に発券されてしまいました。
闇取引の合図と誤解されました。
そしてその場で射殺されてしまいました。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの
作風
ウェーベルンは寡作家です。
生前に出版された作品はわずか31曲でした。
ピエール・ブーレーズが監修・指揮したウェーベルン全集のCDは、
作品番号のない作品を含めてさえ、
ディスク6枚分で間に合っています。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
しかしながらウェーベルンの後進への影響は大きいのです。
とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚でした。
後期作品は十二音技法が使われて密度の薄い音響体と
冷たい情感が特徴的です。
けれども
緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、
音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど
トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできます。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
ブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えています。
ケージは。
ウェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえました。
「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」
という趣旨の発言をしています。
ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと
互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず。
秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで
十二音技法に精通するようになってからは。
ストラヴィンスキーは
ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの。
晩年様式を開花させていきました。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webern
は。
ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように。
ウェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていきまいた。
それでもなお、次のような特徴を挙げることができます。
1・
あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど
非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
2・
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用
(管楽器のフラッター・タンギングや
弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
3・
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》
(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。
シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が。
管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)です。
構成的にはブラームスの
《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っています。
和声的に見ると進歩的でオーケストレーションは
尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められます。
けれども。
個性的になっています。
また変奏される主題には、
お互いに逆行形の反行形を成している部分があります。
この主題が弦のピツィカートによって
途切れ途切れに提示されるなど、
後期作品を彷彿とさせるものがあります。
パッサカリアは古い音楽形式のひとつです。
後にウェーベルンが見せた古い音楽形式への関心
(たとえば《交響曲》や
《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)
の萌芽が見出されます。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。
作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でウェーベルンは無調を用いています。
無調期の作品では。
《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や。
《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが
比較的よく演奏されます。
《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって
極限にまで短く凝縮された音楽は《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)
あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになります。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern
の。
12音技法を用いた最初の例は。
《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)です。
これ以降の作品はすべて12音技法で作曲されました。
器楽曲でその最初の例は、
《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)です。
つまり《弦楽三重奏曲》は
12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みです。
《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れます。
《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、
簡素な明瞭さが現れるようになります。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン
(Anton (von) Webernの。
ウェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでいます。
12の音列のうち4音ずつのグループが形作られます。
3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられています。
ウェーベルン作品の統一感はそこにあります。
しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されます。
一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされています。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
ウェーベルンの最後の作品群は。
作曲様式における新たな発展の可能性を暗示しています。
たとえば2つのカンタータは。
以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しています。
所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、
響きの密度はいくぶん濃密。
音列作法はより単純で、盛期作品に認められる
音列の内的な動機的連関は見いだされません。
突然の不幸な事故死により。
ウェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に
、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを
見定めることは、誰にもできなくなりましたた。
図形による作曲も考案していたと伝えられますが証拠は残っていません。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernの。
エピソード。
フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後で。
聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまいました。
ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、
バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていました。
リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電してしまいました。
ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後に致しました。
亡き友のことを思い出して。
練習できるような状態ではなかったのです(その後、世界初録音は果たしています)。
++++++++++++++++++++++
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webernは。
新ウィーン楽派の中心3人のうちで。
唯一のカトリック(ベルクはプロテスタントでした。
シェーンベルクはカトリック教からプロテスタントに改宗した後。
1933年にナチスへの抗議としてユダヤ教に改宗)。
しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもありました
作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されています。
ナチス政権への親近感から、
弾圧されながらも亡命の道を選びませんでした。
「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」
とすら考えていたらしいです。
晩年は親しい神父に、
「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」
と語って驚かれました。
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アントン・ヴェーベルン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3
アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。ウェーベルンとも書かれる。シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開した。このため、生前は顧られる機会がほとんどなかったが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えた。
目次
1 生涯
2 作風
3 エピソード
4 主要作品一覧
4.1 編曲作品
5 外部リンク
6 参考文献
生涯
オーストリア帝国の首都ウィーンに生まれる。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭で、正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Ernst von Webern)であるが、作曲者自身はミドルネームを公式には使わず、1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)、貴族のみに許された"von"を姓から外した。
父親は成功した鉱山技師として、オーストリア帝国各地を転々としており、このためヴェーベルンは少年時代をグラーツやクラーゲンフルトなどに過ごす。音楽を愛好する家庭環境に育ち、1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事し、ハインリヒ・イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出して学位を得た。古楽のポリフォニー様式への関心が、後のウェーベルン自身の作風に大きな影響を与えていよう。
1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許された。シェーンベルク門下のベルクは、その後のウェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしている。音楽家として独立してからは、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、それからウィーンに戻った。第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立。1922年から1934年までウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団にも定期的に客演を続けた。盟友ベルクが1935年に急逝すると、遺された《ヴァイオリン協奏曲》のイギリス初演で指揮を執った。その模様は、初演のヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、2度にわたってCDに復刻されている。
1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ウェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されたのである。
作風
ウェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。ピエール・ブーレーズが監修・指揮したウェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている。しかしながらウェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。一方、ケージは、ウェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。
ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ウェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。
あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッター・タンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)
シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にウェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。
作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でウェーベルンは無調を用いている。無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。12音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて12音技法で作曲された。器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。
ウェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。ウェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。
ウェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。たとえば2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である。音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。突然の不幸な事故死により、ウェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。
エピソード
フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後、聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまった。
ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていたが、リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電し、ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後にした。亡き友のことを思い出し、練習できるような状態ではなかったのであった(その後、世界初録音は果たしている)。
新ウィーン楽派の中心3人のうちで、唯一のカトリック(ベルクはプロテスタント。シェーンベルクはカトリック教からプロテスタントに改宗した後、1933年にナチスへの抗議としてユダヤ教に改宗)。しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもあり、作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されている。
ナチス政権への親近感から、弾圧されながらも亡命の道を選ばなかった。「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」とすら考えていたらしい。
晩年は親しい神父に、「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」と語って驚かれた。
主要作品一覧
シェーンベルクに入門する前後に独力で書かれた初期作品は、後期ロマン主義音楽の様式を採っている。これらは生前には出版されず、そのため作品番号さえ付けられなかった。それにもかかわらず、研究者ハンス・モルデンハウアー(1906年 - 1987年)によって公開され、出版されると、現在しばしば演奏・録音されるウェーベルン作品となった。大管弦楽のための牧歌《夏の風の中で Im Sommerwind 》(1904年)や《弦楽四重奏のための緩徐楽章》(1905年)がその代表であり、前者はディーリアス、後者はブラームスに近い。
管弦楽のための《パッサカリア》作品1 (1908年)
無伴奏合唱曲《軽やかなる小舟にて逃れよ》作品2 (1908年、詩:シュテファン・ゲオルゲ)
Der Siebente Ringによる《5つの歌曲》作品3 (1907-08年)
シュテファン・ゲオルゲによる《5つの歌曲》作品4 (1908-09年、ピアノ伴奏独唱曲)
弦楽四重奏のための《5つの断章》作品5 (1909年)
管弦楽のための《6つの小品》作品6 (初版:1909-10年、改訂版:1928年)
ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7 (1910年)
リルケの詩による《2つの歌曲》作品8 (1910年)
弦楽四重奏のための6つのバガテレ 作品9 (1913年)
管弦楽のための5つの小品 作品10 (1911-13年)
ピアノとチェロのための3つの小品, 作品11 (1914年)
4つの歌曲 作品12 (1915-17年)
5つの歌曲 作品13 (1914-18年)
6つの歌曲 作品14 (1917-21年、編成:歌手、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、チェロ)
5つの宗教的歌曲 作品15 (1917-22年、室内楽伴奏)
ラテン語詩による5つのカノン 作品16 (1923-24年、編成:ソプラノ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの宗教的民謡 作品17 (1924-25年、編成:歌手、ヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの歌曲 作品18 (1925年、編成:歌手、E♭管クラリネット、ギター)
2つの歌曲 作品19 (1926年、編成:混声合唱、チェレスタ、ギター、ヴァイオリン、クラリネット、バスクラリネット)
弦楽三重奏曲 作品20 (1927)
交響曲 作品21 (1928年)
四重奏曲 作品22 (1930年、編成:ヴァイオリン、クラリネット、テナー・サクソフォーン、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩集による3つの歌 作品23 (1934年)
協奏曲 作品24 (1934年、編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌 作品25 (1934-35年)
混声合唱と管弦楽のための《[[光線Das Augenlicht]] 》作品26 (1935年、詩:ヨーネ)
ピアノのための変奏曲 作品27 (1936年)
弦楽四重奏曲作品28 (1937-38年、BACH主題による作品)
ソプラノ独唱、混声合唱と管弦楽のための《カンタータ第1番》作品29 (1938-39年)
管弦楽のための変奏曲 作品30 (1940年)
ソプラノ独唱、バス独唱、合唱と管弦楽のための《カンタータ第2番》作品31 (1941-43年)
編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)
外部リンク
晩年の写真と墓地の風景
ウェーベルンに関する音楽コラム、英語
同上
参考文献
岡部真一郎『ヴェーベルン―西洋音楽史のプリズム』(春秋社; ISBN 4393934822)
アントン・ウェーベルン『アントン・ウェーベルン―その音楽を享受するために』竹内豊治 編訳(りぶらりあ選書 法政大学出版局; ISBN 4588021109)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: 近現代の作曲家 | オーストリアの作曲家 | 表現主義 | 1883年生 | 1945年没
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12月3日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%883%E6%97%A5
できごと
1805年(文化2年10月13日) - 華岡青洲が日本初の麻酔を使った手術に成功
1946年 - NHKラジオで日本初のクイズ番組「話の泉」の放送が開始される。
1954年 - 少女漫画雑誌なかよしが創刊される。
1967年 - 世界初の心臓移植がケープタウンで行われる。
世界初のレシピエントは移植18日後に死亡。
1989年 - ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領と
ゴルバチョフ・ソ連議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言。
1994年 - ソニー・コンピュータエンタテインメントがプレイステーションを発売。
1994年 -智頭急行智頭線開業。
2005年 - Jリーグ、J1・ガンバ大阪が創立初の年間優勝。
2007年 - Jリーグ準加盟クラブで日本フットボールリーグ(JFL)所属の
ロッソ熊本及びFC岐阜の2008年度からのJ2参入を承認。
2007年 - 東京都内、京浜地区のタクシーが値上げ660円から710円に
誕生日
1819年(文政2年10月16日) - 阿部正弘、幕末の老中、福山藩主(+ 1857年)
1830年 - フレデリック・レイトン、画家・彫刻家(+ 1896年)
1857年 - ジョゼフ・コンラッド、小説家(+ 1924年)
1862年 - ジュール・ランカン、ベルギー首相 (+ 1934年)
1877年 - リチャード・ピアース、航空工学者(+ 1953年)
1879年 - 永井荷風、小説家(+ 1959年)
1882年 - 種田山頭火、俳人(+ 1940年)
1883年 - アントン・ヴェーベルン、作曲家(+ 1945年)
1887年 - 東久邇宮稔彦、第43代内閣総理大臣(+ 1990年)
1888年 - 水野仙子、作家(+ 1919年)
1889年 - 小汀利得、ジャーナリスト・時事評論家(+ 1972年)
1895年 - アンナ・フロイト、心理学者(+ 1982年)
1899年 - 池田勇人、政治家・内閣総理大臣(+ 1965年)
1911年 - ニーノ・ロータ、作曲家(+ 1979年)
1924年 - ジョン・バッカス、情報工学者(+ 2007年)
1925年 - 金大中、大韓民国第15代大統領
1930年 - ジャン=リュック・ゴダール、映画監督
1939年 - 木村朱炎、書家
1939年 - 宇多川勝太郎、大相撲力士(+ 1989年)
1940年 - 篠山紀信、写真家
1941年 - 山脇百合子、絵本作家・挿絵画家
1947年 - 山内新一、元プロ野球選手
1947年 - ウェイン・ギャレット、元プロ野球選手
1948年 - オジー・オズボーン、ミュージシャン(ブラック・サバス)
1948年 - 岡崎徹、俳優、歌手
1950年 - イルカ、歌手
1951年 - 長州力、プロレスラー
1952年 - 柴田光陽、元騎手、調教師
1955年 - 麻生よう子、歌手
1957年 - 岩里祐穂、作詞家、作家
1961年 - 高松信司、アニメーション監督
1962年 - 神保悟志、俳優
1963年 - カトキハジメ、メカニックデザイナー
1964年 - パンチ佐藤、元プロ野球選手、タレント
1964年 - マルコ・テンペスト、マジシャン
1965年 - 古田新太、俳優
1968年 - 織戸学、レーシングドライバー
1970年 - クリスティアン・カランブー、フランスのサッカー選手
1971年 - 藤井貴彦、アナウンサー
1972年 - 高岡早紀、女優
1976年 - 岡本知高、ソプラニスタ
1976年 - 徳田憲治(スムルース)、ミュージシャン
1976年 - ゲーリー・グローバー、プロ野球選手
1977年 - 笑福亭智之介、落語家・マジシャン
1979年 -村田秀亮、お笑い芸人、(とろサーモン)
1979年 - 首藤奈知子(日本放送協会アナウンサー)
1980年 - 武田豊彦、お笑い芸人、アントニオ
1982年 - 美竹涼子、AV女優
1982年 - 坂本エンリケ、ファッションモデル
1984年 - 藤家和依、 ジャニーズJr.、Question?のメンバー
1984年 - 横川史学、プロ野球選手
1984年 - 高井彰大、騎手
1986年 - 園原りか、AV女優
1991年 - 碓井将大、D-BOYS
1994年 - 京本大我、ジャニーズJr.
2000年 - 鍋本凪々美、子役
生年不詳 - 安倍ようこ、声優・歌手
[
忌日
1137年 - ロタール3世、神聖ローマ皇帝(* 1075年)
1490年 - ジュリアーノ・ダ・マイアーノ、彫刻家
1610年(慶長15年10月18日) - 本多忠勝、武将・桑名藩主(* 1548年)
1839年 - フレデリク6世、デンマーク・ノルウェー王(* 1768年)
1848年(嘉永元年11月8日) - 坪井信道、蘭方医(* 1795年)
1850年(嘉永3年10月30日) - 高野長英、蘭学者(* 1804年)
1866年 - ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ、作曲家(* 1801年)
1876年 - ヘルマン・ゲッツ、作曲家(* 1840年)
1882年 - ジェームズ・チャリス、天文学者(* 1803年)
1885年 - 桃井春蔵、剣術家(* 1825年)
1886年 - 箕作秋坪、蘭学者(* 1826年)
1890年 - 根岸友山、元壬生浪士・庄内藩新徴組取締役(* 1810年)
1894年 - ロバート・ルイス・スティーヴンソン、小説家(* 1850年)
1897年 - フリードリヒ・ヴィネッケ、天文学者(* 1835年)
1910年 - メリー・ベーカー・エディ、クリスチャン・サイエンスの創立者(* 1812年)
1919年 - ピエール=オーギュスト・ルノワール、画家(* 1841年)
1920年 - ウィリアム・アブニー、天文学者・化学者(* 1843年)
1931年 - 花井卓蔵、弁護士(* 1868年)
1935年 - ミルマン・パリー、叙事詩学者(* 1902年)
1937年 - 高田早苗、元文部大臣・早稲田大学総長(* 1860年)
1941年 - クリスティアン・シンディング、作曲家(* 1856年)
1942年 - ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル、作曲家(* 1867年)
1942年 - ヘンナー・ヘンケル、テニス選手(* 1915年)
1948年 - 式守伊之助 (16代)、大相撲の立行司(* 1892年)
1956年 - アレクサンドル・ロトチェンコ、画家・写真家・デザイナー(* 1891年)
1965年 - 河上丈太郎、政治家(* 1889年)
1969年 - 長谷部言人、人類学者(* 1882年)
1975年 - 鹿島守之助、実業家・参議院議員(* 1896年)
1978年 - ウィリアム・グラント・スティル、作曲家(* 1895年)
1979年 - 張国涛、中国共産党創立初期の幹部(* 1897年)
1980年 - オズワルド・モズリー、イギリスのファシズム運動指導者(* 1896年)
1980年 - 板沢峰生、プロ野球選手(* 1961年)
1986年 - 川島四郎、栄養学者(* 1895年)
1986年 - 武田文吾、元騎手・調教師(* 1907年)
1986年 - 東君平、絵本作家・童話作家(* 1940年)
1988年 - 清水宗徳、老荘思想研究家(* 1910年)
1993年 - 磯田一郎、実業家・経団連副会長(* 1913年)
1996年 - バーブラーク・カールマル、アフガニスタンの政治家(* 1929年)
1999年 - スキャットマン・ジョン、ミュージシャン(* 1942年)
1999年 - マデリーン・カーン、女優(* 1942年)
2000年 - 小平忠、政治家(* 1915年)
2000年 - 福田純、映画監督(* 1923年)
2004年 - 陳省身、数学者(* 1911年)
2005年 - 鎌田要人、元鹿児島県知事(* 1921年)
2005年 - 川崎寛治、元日本社会党衆議院議員(* 1922年)
2005年 - 田中敦子、画家(* 1932年)
2006年 - 大森健次郎、映画監督(* 1933年)
2006年 - 竹中省吾、裁判官(住民基本台帳ネットワークに違憲判決)(*1942年)
記念日・年中行事
カレンダーの日(日本)
太陽暦採用に伴って、明治5年12月3日(旧暦)が
明治6年(1873年)1月1日となったことに由来し、
全国団扇扇子カレンダー協議会が1987年に制定。
奇術の日(日本)
日本奇術協会が、奇術を行う際の掛け声「ワン、ツー、スリー」に因んで制定。
妻の日(日本)
1年間の妻の労をねぎらう日。
1年の最後の月である12月と、
感謝を表す「サン(3)クス(Thanks)」の語呂合わせに由来する。1995年に制定。
白いハト記念日(全世界)
子羊の群れの美津子さんの信仰の記念日。
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・
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