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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年12月4日(木曜日)
ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。
春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。
夏はすぎました。
9月の秋はおわりました。
中秋10月がおわりました。
「11月」になりました。
今は晩秋もおわり「冬」。
「12月」です。
冬です。雪国の冬です。
「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようでした。
「11月」。
「9月」の初秋がおわり。
「名月中秋10月もおわり」ました。
「11月」もおわりました。
「12月」です。
「晩秋」から「冬」への移り変わりは
「かけあし」のようでした。
「春」がゆっくりと歩いてくるのをまたねば
なりません。
「あと30日足らずで」で。
「今年」はおわります。
そして。
「来年」になります。
「冬」はかけあしでやってくる。
「春」はゆっくりと歩いてくる。
「来年」。
考えると「おそろしいもの」です。
考えなければ。
「なおおおそろしい」
ものであるものかもしれません。
「考えずにいるつけ」がまわって
くるかもしれません。
「来年」のことを考えれば「鬼」が笑う。
「来年」のことを考えずにすめば「鬼」は
笑わないのだろう。
「鬼」とはなんだろう。
今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。
06:30amころ日があければ。
くらい朝日を背に。
西のコバルトの空高く明るい。
とても高い成層圏近くの高い高度に。
西のコバルトの空高に。
「刷毛」でひいたように「絹雲(けんうん)」が
何本も何本も。
描かれて。
たなびいていました。
実に見事な筆捌(ふでさばき)です。
ためらいがない「朝焼け色」の線描です。
高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「ぬけあな」があり
「青空」が透けてみえます。
この「あおぞら」をみているととても
信じられないくらいに。
元気がわいてくることに気が付きました。
「めぐみ」の「陽射し」のおかげです。
「そら一杯の青空の天井」と
「太陽のひかりのひざし」は。
なによりもの「生きとし生けるもの」への。
「ごちそう」です。
そして「太陽のひかりのひざし」は
「めぐみ」です。
ありとあらゆる「生命」をはぐくむもの。
ありとあらゆる「生命」をなぐさめるもの。
「生きとし生けるもの」に。
「いきるちから」をさずけるものです。
さながらにして。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。
そのものを彷彿させますです。
東山魁夷画伯は。
「よくかけたものです」。
はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。
そしてふと考えれば
今年もほぼ「11ヶ月」が
終わりました。
そして中秋から晩秋にうつろい。
いまや「寒月」の「12月」です。
病院の庭園に「4本」ある
「金木犀:きんもくせい」の大木の
いずれもがこがねの花を
たんぽぽのように
枝にみのらせていました。
まだ「はつはな」で初々しかったです。
けれども「金木犀:きんもくせい」
は雨に打たれると。
花は地面にオレンジの緋色毛氈(ひいろもうせん)
のように落下致します。
オレンジ色の積雪のようです。
「金木犀:きんもくせい」に変わって
「銀木犀:きんもくせい」のプラチナ色の香りが
致しました。
冬になり。
「金木犀:きんもくせい」も
「銀木犀:きんもくせい」
も花はおわりました。
山茶花が蕾をふくらませています。
「やぶつばき」が蕾をふくらませています。
山茶花(さざんか)の「はなびら」が
そして今朝の早朝まだ「花」にもきがつかぬうちに
地に舞い下りていました。
山茶花(さざんか)の花ひとつさいて
夜の木枯らしでちったようです。
みつめれば。
木枯らしに弓射られた白鷺のはねのようでした。
ふと野草の花は一般的には。
香らない花が多いことに気づきました。
伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
はとても綺麗なむらさきの「のぎく」です。
けれども「のぎく」は香りません。
(Corn lower, Bachelor's-button)です。
因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。
麦畑やとうもろこし畑の中に 咲いていたことから。
「コーン・フラワー」=「野菊」(Corn lower)
です。
別名 「矢車草(やぐるまそう)」 といわれることがあります。
実は「矢車菊 (やぐるまぎく)」と
「矢車草(やぐるまそう)」まったく違う植物です
矢車菊 (やぐるまぎく)が「野菊」。
「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花です。
古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。
ツタンカーメン王のまだ幼な子王妃が
「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮びます。
「野菊」です。
けれども「野菊」は香りません
毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「木枯らし」がないていました。
「こおろぎ」のほかの。
「こおろぎ」の声も聞こえなくなりました。
「こおろぎ」のかわりに「木枯らし」が
鳴いている。
木枯らしがかわりに。
「ろうろう」「こうこう」とふいています。
ふと。
「寒さにおびえる」ひとの気配がかんじられました。
はてだれだろうとおもえば。
うら若く苦労に苦労をかさねて
24歳にして世を去った「樋口一葉」。
樋口一葉の「わかき」「冬の短歌」がきこえるようです。
散たまるふもとの落葉わけて思ふ
埋もれぬべき雪の山里
ちりたまるふもとのおちはわけておもふ
うもれぬへきはゆきのやまさと
庭の面につもる紅葉の色見れば
散りての後もにしきなりけり
にわのおもにつもるもみしのいろみれば
ちりてのあともにしきなりけり
世の中の秋にあはじとおくれけん
一もと野ぎく思ひあがりて
よのなかにあきにあはしとおくれけん
ひともとのきくおもひあがりて
「24歳」の「貧しい乙女」の
かなしさの表情と。
すばらしいうら若い「御婦人」の知性が。
如実によみとれます。
これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは速くなる。
しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。
けれども。
「安堵感」と「落胆感」は。
表裏一体。
両羽(もろば)の剣です。
「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
性格を。
「短くなる陽」は持っています。
季節には「大気の音」があるようです。
朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。
「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には
「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。
「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。
金木犀の大木が4本と銀木犀が2本
あります。
「中秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」が開花致しました。
今は
「晩秋」。
「木犀:もくせい」の「花」は通り過ぎました。
「山茶花(さざんか)」と「やぶつばき」が
蕾を大きくしています。
山茶花(さざんか)も「やぶつばき」も私は「大好き」
な花木です。
「花」はみえない頃からもう
「金木犀:きんもくせい」
は「香っています」。
モクセイも秋にも若葉をだします。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。
「あじさい」は
のんびりやの気がする。
「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。
あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。
ふと思う。
考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。
この時期になり。
森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉する
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。
「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。
身の丈以上ほどにもなって群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が。
病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。
あけびつたもうれしい。
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。
またたびをみつけました。
根元にねこにかじられきずがある。
里山の紅葉の時期から冬の里山の時期
になりました。
四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。
この「あゆみ」の「質量」は
とてもとても高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。
四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。
ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。
草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。
自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と
「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。
この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。
或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。
私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。
古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。
*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。
実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。
但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。
また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。
邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。
「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。
邦楽もその一つです。
大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。
「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。
人間は。
人類は。
わずか「400年」で。
「音楽の旋律」に対する「楽譜」を。
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。
まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。
木々のめぶきの
冬なおも。
ますます力強い息吹を感じます。
「真夏」をすぎ「秋」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「秋若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
樹木の上方で。
くすぶりまちわびてています。
冬の樹木です。
「若葉」の「新緑」から「深緑」です。
高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。
桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
そして今「樹木」は「葉のいろ」をかえ
「宇宙」に舞おうとしています。
明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」。
「秋から冬」
にむかう四季の。
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。
今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。
「幸せ色」=「しあわせいろ」
ならばよいです。
けれども
早朝は非常に寒くなりました。
冬やま中さまよいて
冬やま中をわけいらば
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬やま中あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
冬やま中みつけたりやまの秋の華。
冬やま中やまの秋葉木のかくれんぼ
冬やま中大樹の根元に隠れたり
冬山はぜの葉木。
冬やま中やまうるしの葉木。
冬やま中あきやまはぜとふるやまうるし。
冬こす「はだか木」。
冬こす元気な木。たくましき木。
秋冬山萩(やまはぎ)の
秋冬花をかくして燃えたたむ
秋冬に実りの祭りなり
秋冬山はぜの葉炎
秋冬天高く燃ゆ
あきふゆやまはぎの
あきふゆはなをかくしてもえたたむ
あきふゆにみのりのまつりなり
あきふゆやまはせのほのほ
あきふゆてんたかくもゆ
ふゆひろくなりけり空(そら)たかし
ふゆさとやまに木々のみどり木
ふゆこもれびうけて燃えるがごとし
ふゆみどりの炎(ほのほ)
ふゆほのほうちけさむかすみはあおし
ふゆほのほにかすみにただよひて
ふゆうるわしくかがやきたり
ふゆあたたかくかおりたり
ふゆあざやかなりけり
ふゆやまさとのやまみどり
ふゆやまさとのふかみどり
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。
*
多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。
「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」
「小さな秋みつけた・。」
そして
「小さな冬みつけた」
そして
「大きな冬みつけた」。
私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------
平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
-------------------------------
平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++
平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------
7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++
「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
++++++++++++++++++++++
9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++
10月13日(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
++++++++++++++++++++++
11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++
12月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
-------------------------------
2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
------------------------------
成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
------------------------------
学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
-------------------------------
「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。
1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。
「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。
お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。
「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。
すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。
そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。
患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。
考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。
作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。
私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。
心より。
感謝・
感謝。
「今日は何の日」は。
ドイツは大詩人を産出するので興味深い国です。
とりわけの世紀のドイツの大詩人。
軍人の父と離婚した母により。
娘を欲しがっていた母により。
5歳まで女の子として育てられた詩人。
1875年 - ライナー・マリア・リルケ、詩人(+ 1926年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++
ライナー・マリア・リルケ
(Rainer Maria Rilke、
1875年12月4日 - 1926年12月29日)は。
20世紀を代表するオーストリア生まれの
詩人、作家、評論家です。
独特の言語表現による詩は。
ドイツ詩に新たな一面を切り開きました。
20世紀のドイツ文学の代表者の一人です。
ドイツ文学史を通して見ても。
最高峰の詩人の一人に数えられます。
また独自の宗教観や時代に対する
不安や苦しみといった概念を
もたれています。
このプロフールは20世紀をも。
象徴するようにも捉えらる気が致します。
++++++++++++++++++++++
ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの生涯
プラハ(現チェコ領。
当時はオーストリア・ハンガリー帝国の領土内)の。
ユダヤ系ドイツ人の子として生まれました。
プラハ当地は。
ドイツ語文化圏から見ればかなり外れの街といえます。
プラハの街は。
スラブ人、ドイツ人、ユダヤ人が
鼎立していたところでもあります。
ドイツ人は不利な立場になりつつある街でした。
またこの街ではキリスト教の
新旧勢力の衝突の場でもありました。
このプラハの街で生まれた事が。
リルケの独特な観点を生み出したともいえます。
++++++++++++++++++++++
ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
1875年軍人出のヨーゼフ・リルケと
その妻ソフィアの息子として生まれました。
二人はリルケが9歳のときに離婚しています。
父ヨーゼフは軍人向きの性格でした。
軍を去って鉄道会社の職員となりました。
そしてのちにはリルケを
陸軍の幼年学校や士官学校に入学させました。
父親はライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
が「軍人」になることを望みました。
++++++++++++++++++++++
ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
にとって。
この陸軍の幼年学校や士官学校に入学は。
重い心身の負担となりました。
不祥事もあって士官学校を退学することになりました。
この一件は父を深く失望させました。
けれども母ソフィアは。
父以上にリルケに影響を与えた人物でした。
娘を欲しがってリルケを5歳まで女の子として育てました。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの母の。
このようなことをはじめ。
実母のその奇抜で
突飛な振る舞いや非現実的で虚栄的な性格によって。
リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになりました。
母親に対する屈折した心情を吐露した記述は。
ルー・ザロメ宛ての手紙などに遺されています。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
陸軍学校を経て。
1894年に19歳で処女詩集『いのちと歌』を刊行致します。
プラハ大学ついでミュンヘン大学に学びました。
詩や散文を多く執筆致します。
初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う
優美さによって特徴付けられます。
そのころ隆盛してきていた
ユーゲントシュティールと軌を
一にしていると見る向きもあります。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
22歳のときに。
作家ルー・ザロメを知ります。
ザロメの後を追うようにベルリンへ行きました。
ベルリン大学で学びましだ。
作家ルー・ザロメと共にロシアやイタリアへ旅行致しました。
ロシアでの人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は。
『神さまの話』や
『時祷詩集』を生む契機の一つとなりました。
26歳の時にクララ・ヴェストホフと結婚したが
家庭は早くから離散状態でした。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
27歳の時からパリでの生活を始めました。
このパリ時代に経験した不安と孤独、憂愁の体験は
『マルテの手記』を執筆するうえでの大きな源泉となります。
さらに。
この頃に彫刻家オーギュスト・ロダンと知り合って。
その芸術観から多くを学びました。
ロダンの評論も書き上げています。
(のちロダンと不和を生じたが、
リルケ自身のロダンの評価は
変わることはありませんでした)。
またシャルル・ボードレールや
ポール・セザンヌなど様々な芸術家に対する関心を深めつつ。
自らの芸術についての考えや立場を転換していきました。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。
それまでの優美さや感受性の流露は影を潜めて。
パリで体験した現実と孤独。
そして誠実な観察と職人的な仕事によって支えられた
ロダンの造形への意志の影響の下に。
『新詩集』ではいわゆる「事物詩」をはじめとした
語られているものを言葉によって内側から形作ろうとする
作風に達しています。
この転換を端的に表すものとして。
「どんなに恐ろしい現実にみまわれても
僕はその現実の故に。いかなる夢をも捨てようとも。
悔いないだろう」
という言葉が残っています。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeじは。
1910年に『マルテの手記』が完成。
その年から翌年にかけて北アフリカ・エジプトに旅行致しました。
リルケの目は地中海地域全体にまで広がりました。
リルケはよく手紙を書いたことでも知られます。
知人や文学者、出版者、パトロンなどに宛てた
膨大な数の手紙が刊行されています。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilke
の「手紙」の。
なかでも詩人志望の青年フランツ・カプスからの手紙に
答えて文通の始まった
『若き詩人への手紙』。
子供との二人暮しを支えるために働きながら
リルケの詩を読んでいた女性リーザ・ハイゼとの
文通の集成である
『若き女性への手紙』は。
リルケの誠実な返答や芸術についての
鋭い考察などによってよく知られています。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
『マルテの手記』完成後は。
深い虚脱と絶望にとらわれていました。
ある侯爵夫人から詩作の場所として
ドゥイノの館を提供され、
そこで新たな霊感を得て1912年から
『ドゥイノの悲歌』を書き始めます。
『悲歌』の執筆は中断を挟みながら
10年以上にわたって続けられました。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
1914年に第一次世界大戦が起こり兵役へ赴きました。
この体験は、やがて不安や苦しみ・虚無などの概念として
リルケの作品に表れるようになります。
またこの頃は。
トラークルやヘルダーリン、クロプシュトック
などに関心を抱いていました。
1919年にはスイスへ旅行致しました。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
1921年に詩人・ポール・ヴァレリーの詩に感動し、
フランス語での詩作を多くするようになりました。
またヴァレリーの詩は、
『悲歌』を完成させるにあたっての
大きな力の一つともなりました。
同年に、晩年を過ごすことになる
ミュゾットの館へ移ります。
翌年の2月、創作の爆発のようにして一気に
『ドゥイノの悲歌』を完成させました。
そしてその前後に
『オルフォイスへのソネット』の全篇も成立致しました。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。
切迫した自由律によって
内面的空間としての世界を歌った『ドゥイノの悲歌』。
万物やその万物あらゆるものに転変する歌う神
オルフォイス(オルフェウス)
を讃える詩篇群
『オルフォイスへのソネット』は。
ともに。
20世紀のドイツ語の詩の最高傑作のひとつに数えられています。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeは。
ラロンの墓地にあるリルケの墓39歳の時、
詩人アンドレ・ジッドと
ピアニストのマクダ・フォン・ハッテンベルクを知りあいました。
最晩年にはヴァレリーと出会いました。
1926年に白血病の症状が出ました。
年末に体調を崩し、
12月29日に死去。51歳でした。
「バラの棘に刺されて死んだ」という逸話は有名です。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの。
また「やってこい、わたしの認める・・・」
ではじまる未完の遺稿と
「ばらよ・・・」ではじまる墓碑銘は。
リルケの晩年の詩境をあらわすものとして名高いものです。
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ライナー・マリア・リルケ:Rainer Maria Rilkeの
作品
リルケの邦訳は、多くの出版社から出されており
比較的入手しやすい。
全集も出されている(新版河出書房新社、旧版の弥生書房は絶版)
詩集
いのちと歌 (1894)
家神へのささげ (1895)
夢を冠に (1896)
降臨節 (1897)
わがための祝い (1899,1909(『初期詩集』として))
形象詩集 (1902,1906)
時祷詩集 (1905)
旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌 (1906)
新詩集 (1907,1908) Neue Gedichte
鎮魂歌 (1909)
マリアの生涯 (1913)
オルフォイスへのソネット (1923) Die Sonette an Orpheus
ドゥイノの悲歌 (1923) Duineser Elegien
小説
人生に沿って (1898)
プラハの二つの物語 (1899)
神さまのお話 (1900) Geschichten vom lieben Gott
最後の人々 (1902)
マルテの手記 (1910) Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge
戯曲
いま、われらの死するとき (1896)
白衣の貴婦人 (1900)
日常茶飯 (1901)
評論
フィレンツェ日記 (1898)
ロダン Auguste Rodin
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ライナー・マリア・リルケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%B1
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)は、20世紀を代表するオーストリアの詩人、作家、評論家。
独特の言語表現による詩は、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた。20世紀のドイツ文学の代表者の一人であり、ドイツ文学史を通して見ても最高峰の詩人の一人に数えられる。また独自の宗教観や時代に対する不安や苦しみといった概念は、20世紀を象徴するようにも捉えられている。
目次
1 生涯
2 作品
2.1 詩集
2.2 小説
2.3 戯曲
2.4 評論
3 外部リンク
4 関連項目
生涯
プラハ(現チェコ領。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の領土内)のユダヤ系ドイツ人の子として生まれる。
当地は、ドイツ語文化圏から見ればかなり外れの街でプラハの街は、スラブ人、ドイツ人、ユダヤ人が鼎立していたところでもあり、ドイツ人は不利な立場になりつつある街であった。またこの街ではキリスト教の新旧勢力の衝突の場でもあった。このプラハの街で生まれた事がリルケの独特な観点を生み出したともいえる。
1875年、軍人出のヨーゼフ・リルケとその妻ソフィアの息子として生まれる。二人はリルケが9歳のときに離婚している。父ヨーゼフは軍人向きの性格だったが軍を去って鉄道会社の職員となり、のちにはリルケを陸軍の幼年学校や士官学校に入学させた。この入学はリルケにとって重い心身の負担となり、不祥事もあって士官学校を退学することになり、父を失望させた。母ソフィアは父以上にリルケに影響を与えた人物であり、娘を欲しがってリルケを5歳まで女の子として育てたことをはじめ、その奇抜で突飛な振る舞いや非現実的で虚栄的な性格によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母親に対する屈折した心情を吐露した記述が、ルー・ザロメ宛ての手紙などに遺されている。
陸軍学校を経て、1894年に19歳で処女詩集『いのちと歌』を刊行。プラハ大学ついでミュンヘン大学に学び、詩や散文を多く執筆した。初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う優美さによって特徴付けられ、そのころ隆盛してきていたユーゲントシュティールと軌を一にしていると見る向きもある。22歳のとき、作家ルー・ザロメを知る。ザロメの後を追うように、ベルリンへ行き、ベルリン大学で学んだ。ルーと共にロシアやイタリアへ旅行し、ロシアでの人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は『神さまの話』や『時祷詩集』を生む契機の一つとなった。26歳の時にクララ・ヴェストホフと結婚したが、家庭は早くから離散状態であった。
パウラ・モーデルゾーン=ベッカーによるリルケの肖像(1906年、ブレーメン)27歳の時からパリでの生活を始める。このパリ時代に経験した不安と孤独、憂愁の体験は『マルテの手記』を執筆するうえでの大きな源泉となる。この頃に彫刻家オーギュスト・ロダンと知り合ってその芸術観から多くを学び、ロダンの評論も書き上げている(のちロダンと不和を生じたが、リルケ自身のロダンの評価は変わることがなかった)。またシャルル・ボードレールやポール・セザンヌなど様々な芸術家に対する関心を深めつつ、自らの芸術についての考えや立場を転換していった。それまでの優美さや感受性の流露は影を潜め、パリで体験した現実と孤独、そして誠実な観察と職人的な仕事によって支えられたロダンの造形への意志の影響の下に、『新詩集』ではいわゆる「事物詩」をはじめとした、語られているものを言葉によって内側から形作ろうとする作風に達している。この転換を端的に表すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」という言葉が残っている。1910年に『マルテの手記』が完成。その年から翌年にかけて北アフリカ・エジプトに旅行し、リルケの目は地中海地域全体にまで広がった。
リルケはよく手紙を書いたことでも知られ、知人や文学者、出版者、パトロンなどに宛てた膨大な数の手紙が刊行されている。なかでも詩人志望の青年フランツ・カプスからの手紙に答えて文通の始まった『若き詩人への手紙』や、子供との二人暮しを支えるために働きながらリルケの詩を読んでいた女性リーザ・ハイゼとの文通の集成である『若き女性への手紙』は、リルケの誠実な返答や芸術についての鋭い考察などによってよく知られている。
『マルテの手記』完成後は深い虚脱と絶望にとらわれていたが、ある侯爵夫人から詩作の場所としてドゥイノの館を提供され、そこで新たな霊感を得て1912年から『ドゥイノの悲歌』を書き始める。『悲歌』の執筆は中断を挟みながら10年以上にわたって続けられた。1914年に第一次世界大戦が起こり、兵役へ赴く。この体験は、やがて不安や苦しみ・虚無などの概念としてリルケの作品に表れるようになる。またこの頃はトラークルやヘルダーリン、クロプシュトックなどに関心を抱いていた。1919年にはスイスへ旅行する。
1921年に詩人・ポール・ヴァレリーの詩に感動し、フランス語での詩作を多くするようになる。またヴァレリーの詩は、『悲歌』を完成させるにあたっての大きな力の一つともなった。同年に、晩年を過ごすことになるミュゾットの館へ移る。翌年の2月、創作の爆発のようにして一気に『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その前後に『オルフォイスへのソネット』の全篇も成立した。切迫した自由律によって内面的空間としての世界を歌った『ドゥイノの悲歌』と、万物やその万物あらゆるものに転変する歌う神オルフォイス(オルフェウス)を讃える詩篇群『オルフォイスへのソネット』は、ともに20世紀のドイツ語の詩の最高傑作のひとつに数えられている。
ラロンの墓地にあるリルケの墓39歳の時、詩人アンドレ・ジッドとピアニストのマクダ・フォン・ハッテンベルクを知る。最晩年にはヴァレリーと出会った。1926年に白血病の症状が出、年末に体調を崩し、12月29日に死去。51歳であった。「バラの棘に刺されて死んだ」という逸話は有名である。また「やってこい、わたしの認める・・・」ではじまる未完の遺稿と「ばらよ・・・」ではじまる墓碑銘は、リルケの晩年の詩境をあらわすものとして名高い。
作品
リルケの邦訳は、多くの出版社から出されており比較的入手しやすい。全集も出されている(新版河出書房新社、旧版の弥生書房は絶版)
詩集
いのちと歌 (1894)
家神へのささげ (1895)
夢を冠に (1896)
降臨節 (1897)
わがための祝い (1899,1909(『初期詩集』として))
形象詩集 (1902,1906)
時祷詩集 (1905)
旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌 (1906)
新詩集 (1907,1908) Neue Gedichte
鎮魂歌 (1909)
マリアの生涯 (1913)
オルフォイスへのソネット (1923) Die Sonette an Orpheus
ドゥイノの悲歌 (1923) Duineser Elegien
小説
人生に沿って (1898)
プラハの二つの物語 (1899)
神さまのお話 (1900) Geschichten vom lieben Gott
最後の人々 (1902)
マルテの手記 (1910) Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge
戯曲
いま、われらの死するとき (1896)
白衣の貴婦人 (1900)
日常茶飯 (1901)
評論
フィレンツェ日記 (1898)
ロダン Auguste Rodin
外部リンク
リルケ ライネル・マリア:作家別作品リスト(青空文庫)
関連項目
ドイツ詩
ドイツ文学
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%B1" より作成
カテゴリ: オーストリアの詩人 | ユダヤ系オーストリア人 | ユダヤ系ドイツ人 | 1875年生 | 1926年没
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12月4日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%884%E6%97%A5
できごと
794年(延暦13年11月8日) - 平安京が新都となり、同時に山背国が山城国と改められる。
1185年(文治元年11月11日) - 後白河法皇が源頼朝に源義経追討の院宣を下す。
1888年 - 香川県、愛媛県から分離。
1909年 - 大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発する。
1934年 - 大雪山国立公園・阿寒国立公園・中部山岳国立公園・阿蘇国立公園
(現阿蘇くじゅう国立公園)が国立公園に指定。
1960年 - 都営地下鉄1号線(現在の浅草線) 押上駅-浅草橋駅間が開業。
1965年 - 1965年ニューヨーク空中衝突事故
1977年 - 中央アフリカ共和国終身大統領ジャン=ベデル・ボカサが戴冠式を行い
中央アフリカ帝国皇帝ボカサ1世として即位。
1982年 - 映画『E.T.』が日本で公開される。
1983年 - テレビユー福島 (TUF) 開局。
1988年 - JR西日本湖西線堅田駅 - 和邇駅間に小野駅が開業。
1994年 - WBC世界バンタム級王者薬師寺保栄と、
WBC世界バンタム級暫定王者辰吉丈一郎の間で、
日本人同士による初の統一王座決定戦が行われる。
1999年 - JR東日本奥羽本線山形駅〜新庄駅間標準軌化(山形新幹線山形駅〜新庄駅間開業)
1999年 - さくらんぼ東根駅開業。
2004年 - 50年間続いたゴジラシリーズの
最終作「ゴジラ FINAL WARS」が全国300スクリーンで公開。
又、同日に「Mr,インクレディブル」公開
誕生日
1795年 - トーマス・カーライル、歴史家(+ 1881年)
1866年 - ワシリー・カンディンスキー、画家(+ 1944年)
1875年 - ライナー・マリア・リルケ、詩人(+ 1926年)
1892年 - フランシスコ・フランコ、スペインの軍人・政治家(+ 1975年)
1908年 - アルフレッド・ハーシェイ、生物学者(+ 1997年)
1909年 - 原島宏治、政治家(+ 1964年)
1921年 - うしおそうじ、漫画家、演出家(+ 2004年)
1922年 - ジェラール・フィリップ、俳優(+ 1959年)
1930年 - ジム・ホール、ジャズ・ギタリスト
1932年 - 盧泰愚、軍人・政治家・第13代韓国大統領
1933年 - 芦屋小雁、俳優
1933年 - 野田宣雄、政治学者・歴史学者
1933年 - ホルスト・ブッフホルツ、俳優(+ 2003年)
1933年 - 河津憲一、元プロ野球選手
1936年 - 山本道子、作家
1939年 - 遠井吾郎、元プロ野球選手(+ 2005年)
1940年 - 新克利、俳優
1940年 - 久間章生、政治家
1940年 - 二瓶正也、俳優
1941年 - 花巻五郎、俳優
1944年 - 青柳裕介、漫画家(+ 2001年)
1946年 - 井上瑤、声優(+ 2003年)
1947年 - 安田好弘、弁護士
1948年 - 川又千秋、SF作家
1952年 - レオン・リー、元プロ球選手・プロ野球監督
1953年 - 三浦浩一、俳優
1955年 - 滝田洋二郎、映画監督
1955年 - 花堂純次、映画監督
1956年 - 町村敬志、社会学者
1961年 - 茶風林、声優
1963年 - セルゲイ・ブブカ、棒高跳選手
1963年 - バーナード・ブリトー、元プロ野球選手
1965年 - 近江谷太朗、俳優
1965年 - 与田剛、野球選手
1966年 - 斎田晴子、女流棋士
1966年 - 永井真理子、歌手
1968年 - チェ・ジンシル、女優
1968年 - 西方仁也、スキージャンプ選手
1969年 - 浅香唯、タレント
1969年 - 岸滋彦、騎手
1969年 - ダイナマイト・関西、プロレスラー
1970年 - 中川剛、お笑いタレント中川家
1972年 - 牧野アンナ、歌手
1972年 - 宮村優子 (声優)
1973年 - 田村淳、お笑いタレント
1974年 - 井口資仁、プロ野球選手
1974年 - アンケ・フーバー、テニス選手
1975年 - 中津川勉、クリエーター
1976年 - 愛敬尚史、プロ野球選手
1976年 - 梅村礼、卓球選手
1976年 - 日向秀和、ベーシスト
1976年 - 草野大輔、プロ野球選手
1976年 - 出羽乃富士智瑛、大相撲力士
1977年 - 野田浩輔、プロ野球選手
1978年 - イーグル・デーン・ジュンラパン、プロボクサー
1978年 - 西歩見、ファッションモデル、料理研究家
1978年 - 湯原麻利絵、タレント
1978年 - 麻由、タレント
1981年 - 高宮和也、プロ野球選手
1981年 - 金子洋平、プロ野球選手
1981年 - 岩丸史也、サッカー選手
1984年 - 岸孝之、プロ野球選手
1984年 - 根岸麻衣、モデル
1984年 - 湯元健一、レスリング選手
1985年 - ギャル曽根、タレント
1985年 - 和希優美、タレント
1986年 - 菅緑、タレント(東京海洋大学)、第7期第2日本テレビ専属アナウンサー
1986年 - 渡辺広大、サッカー選手
1987年 - 木下優樹菜、グラビアアイドル
1987年 - 平井将生、サッカー、ガンバ大阪
1988年 - 梓 (歌手)
1992年 - 五十畑颯斗、俳優
1992年 - 桑幡壱真、子役
忌日
765年 - ジャアファル・サーディク、
イスラム教シーア派・イマーム派第6代イマーム(* 702年)
771年 - カールマン、フランク王国国王(* 751年)
891年(寛平3年10月29日)- 円珍、天台宗の僧(* 814年)
1111年(天永2年11月2日)- 永観、三論宗の僧(* 1033年)
1131年 - ウマル・ハイヤーム、学者・詩人(* 1048年)
1214年 - ウィリアム1世、スコットランド王(* 1143年)
1270年 - テオバルド2世、ナバラ王・シャンパーニュ伯(* 1238年頃)
1334年 - ヨハネス22世、第196代ローマ教皇(* 1244年?)
1371年 - シメオン・ウロシュ・パレオロゴス、セサリア皇帝・イピロス専制公
1566年(永禄9年10月23日)- 牧野成定、戦国時代の武将(* 1525年)
1574年 - ゲオルグ・レティクス、天文学者・数学者(* 1514年)
1615年(元和元年10月14日)- 片倉景綱、伊達氏の重臣として知られる武将(* 1557年)
1642年 - リシュリュー、フランス宰相(* 1585年)
1653年(承応2年10月15日)- 鈴木重成、天草代官(* 1588年)
1679年 - トマス・ホッブズ、政治哲学者(* 1588年)
1696年(元禄9年11月10日)- 明正天皇、第109代天皇(* 1624年)
1798年 - ルイージ・ガルヴァーニ、医学者・物理学者(* 1737年)
1815年(文化12年11月4日)- 根岸鎮衛、旗本・第26代南町奉行(* 1737年)
1866年(慶応2年10月28日)- 水野忠誠、江戸幕府の老中・第7代沼津藩主(* 1834年)
1884年 - アリス・メアリ・スミス、作曲家(* 1839年)
1892年 - 大場久八、博徒(* 1814年)
1902年 - チャールズ・ダウ、ジャーナリスト・経済アナリスト(* 1851年)
1928年 - 磯部保次、
実業家・千代田瓦斯(東京ガス前身)創業者・政友会衆議院議員(* 1868年)
1935年 - シャルル・ロベール・リシェ、生理学者(* 1850年)
1937年 - 真鶴秀五郎、大相撲の力士・元小結(* 1902年)
1938年 - 玉錦三右エ門、大相撲第32代横綱(* 1903年)
1942年 - 中島敦、作家(* 1909年)
1944年 - 永井柳太郎、元拓務大臣・逓信大臣・鉄道大臣(* 1881年)
1945年 - トーマス・ハント・モーガン、生物学者(* 1866年)
1952年 - カレン・ホーナイ、医師・精神分析家(* 1885年)
1961年 - 津田左右吉、歴史学者(* 1873年)
1967年 - 笠信太郎、ジャーナリスト(* 1900年)
1970年 - 飯塚浩二、地理学者(* 1906年)
1973年 - 平井太郎、元郵政大臣(* 1905年)
1974年 - 服部伸、講談師(* 1880年)
1975年 - ハンナ・アーレント、政治哲学者・政治思想家(* 1906年)
1976年 - ベンジャミン・ブリテン、作曲家(* 1913年)
1976年 - トミー・ボーリン、ミュージシャン・元ディープ・パープル(* 1951年)
1978年 - サミュエル・ゴーズミット、物理学者(* 1902年)
1979年 - ヴァルター・ミュラー、物理学者・発明家(* 1905年)
1987年 - ルーベン・マムーリアン、映画監督(* 1897年)
1987年 - クルト・ヴェス、元NHK交響楽団常任指揮者(* 1914年)
1987年 - アーノルド・ローベル、絵本作家(* 1933年)
1990年 - 田島直人、陸上競技選手・ベルリンオリンピック金メダリスト(* 1912年)
1993年 - フランク・ザッパ、ミュージシャン(* 1940年)
1999年 - 大翔鳳昌巳、大相撲力士・元小結(* 1967年)
2005年 - 原ひさ子、女優(* 1909年)
2005年 - グレッグ・ホフマン、映画プロデューサー(* 1963年)
記念日・年中行事
血清療法の日
1890年12月4日、エミール・ベーリングと
北里柴三郎が血清療法開発につながる破傷風とジフテリアの抗体を発見したことから。
聖バルバラの日
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・
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