2008年01月29日

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年1月29日(火曜日)




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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科

山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年1月29日(火曜日)


朝まだ夜もあけない05:00amに
東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
明かりはともりあす。

私は新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

毎朝のことながら寒いのがつらい。

私が活動するときはおりしも
放射冷却の「ころ」なので
とても「鋭い寒さ」になります。

夜明の気配がちかづくと
まだ暗いのに「ひよどり」の大群が
やってきて。
山本クリニックの庭園の「柑橘類の実」を
ねらっています。






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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年1月14日(月曜日)
は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。



-------------------------------




平成20年2月11日(月曜日)は祝日です


「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------


★★★


今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。



当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。



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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------


受験が近くなります。
学校の「受験」はもうすぐです。
入学式まで。桜の花まで。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。


このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です


-------------------------------


草木は「冬景色」に。
すっかりとかわりました。
真冬の冬です。



「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。


このような今年の冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。



難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。



私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。


難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。


心より感謝・感謝。



「今日は何の日」
私が音楽性にも「人格者」としても
尊敬する「ヴアイオリニスト」
1962年 - フリッツ・クライスラー、ヴァイオリニスト・作曲家(* 1875年)
の没日です。
++++++++++++++++++++++
ジークムント・フロイトと親しい医者の子としてウィーンに生まれる。
父親は大の音楽好きでアマチュアの弦楽器奏者でもあった。

その父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを
習い始めたが、
あまりにも飲み込みが早く、
7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学して
ヨーゼフ・ヘルメスベルガーに演奏を、
アントン・ブルックナーに作曲を学び、
10歳にして首席で卒業しました。

在学中、楽員を訪問した
ヨーゼフ・ヨアヒムらの大家の演奏を聴き、
さらに感性を研ぐこととなった。
++++++++++++++++++++++
その後、パリ高等音楽院に入学。
12歳で再びそこを首席で卒業した。

1888年、13歳の時にアメリカのボストンで
初演奏会を開いて成功を収め、
翌年、オーストリアに凱旋帰国。

帰国後は「神童」としてもてはやされることを
望まなかった父親の勧めで、
一般教養を身につける意味もあり高等学校に進学。

高等学校では医学を勉強するが肌に合わず
本格的に勉強するまでには至らなかった。

++++++++++++++++++++++

20歳になった1895年にはオーストリア帝国陸軍に入隊、
親衛隊に配属され予備役ながら将校に任官する。
一時はヴァイオリンを捨て軍人になろうと
決心したこともあったが、
家庭の都合で除隊の後音楽界に復帰する。

復帰後、
再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始していった。
クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
入団試験を受けた事もあるのだが、
「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という
理由で落とされています。

++++++++++++++++++++++
この頃から、
レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始める事となった。
1899年、アルトゥール・ニキシュ指揮の
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。

この公演はウジェーヌ・イザイに激賞され成功裏に終わり、
クライスラーの演奏活動はこの頃から軌道に乗り始めるようになる。

1902年にはロンドンデビューを果たし成功。

それに気をよくし
しばらくの間はイギリスを本拠地として活動致しました。
同年にはニューヨークで結婚。
この頃からレコーディング活動も始める。
++++++++++++++++++++++

1914年に勃発した第一次世界大戦では、
クライスラーは陸軍中尉として召集を受け
東部戦線に出征するが重傷を負い、
後送されて間もなく名誉の除隊。

除隊後はニューヨークの自宅に戻り、
療養しながら演奏活動を再開するが、
アメリカにとってはオーストリアは敵国だったため、
活動はあまり軌道に乗らなかった。
++++++++++++++++++++++

大戦終結後はヨーロッパ楽壇に復帰。
1923年には来日を果たしている。
1924年から1934年までベルリンに拠点を置いていたが、
ヒトラーによってナチが政権を獲得すると状況は一変する。

クライスラーは最初、大衆的人気に目を付けられ
同じユダヤ系の指揮者レオ・ブレッヒ
(彼と録音したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、
クライスラーの名盤の一つに数えられる)
ともどもドイツへの残留を要請されるが、
断固拒絶。
++++++++++++++++++++++
1938年、オーストリアがドイツに併合されたのを機に
フランス国籍を取得し、パリに移住した。

1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、
アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、
1943年にはアメリカ国籍を取得。

以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。
アメリカ国籍取得の2年前には交通事故で重傷を負い、
一時は「再起不能」とも伝えられたが奇跡的にカムバック。
++++++++++++++++++++++
放送への出演やリサイタルを断続的に行うも、
負傷の後遺症(視力障害や突発的な記憶喪失など。
音楽的な感覚は奇跡的に障害から逃れた)が尾を引いたこともあり、
1950年に引退。1962年、「20世紀最高のヴァイオリニスト」
と称され惜しまれながら死去した。
++++++++++++++++++++++
クライスラーは、金に困っている若い演奏家に、
自分の持っている楽器を気前よく分け与えるなど、
陽気で気さくな性格であったということです。

また、クライスラーは楽器や美術品の蒐集
でも知られていました。

引退後にそれらのほとんどを手放しているが、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲の自筆原稿と
エルネスト・ショーソンの「詩曲」の自筆原稿は手放さず、
後にアメリカ国会図書館に寄贈されました。
++++++++++++++++++++++




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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

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フリッツ・クライスラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC



フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日:ウィーン - 1962年1月29日:ニューヨーク)はオーストリア出身で、後にフランス〜アメリカ国籍となった世界的ヴァイオリニストの一人であり作曲家である。ユダヤ系。

目次 [非表示]
1 生涯
2 主な作品
3 クライスラーの発言
4 クライスラーは笑う
5 クライスラーの来日
6 著作
7 参考文献



生涯
ジークムント・フロイトと親しい医者の子としてウィーンに生まれる。
父親は大の音楽好きでアマチュアの弦楽器奏者でもあった。

その父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを習い始めたが、
あまりにも飲み込みが早く、
7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学して
ヨーゼフ・ヘルメスベルガーに演奏を、アントン・ブルックナーに作曲を学び、
10歳にして首席で卒業した。

在学中、楽員を訪問したヨーゼフ・ヨアヒムらの大家の演奏を聴き、
さらに感性を研ぐこととなった。

その後、パリ高等音楽院に入学。12歳で再びそこを首席で卒業した。

1888年、13歳の時にアメリカのボストンで初演奏会を開いて成功を収め、
翌年、オーストリアに凱旋帰国。

帰国後は「神童」としてもてはやされることを望まなかった父親の勧めで、
一般教養を身につける意味もあり高等学校に進学。
高等学校では医学を勉強するが肌に合わず本格的に勉強するまでには至らなかった。

20歳になった1895年にはオーストリア帝国陸軍に入隊、
親衛隊に配属され予備役ながら将校に任官する。
一時はヴァイオリンを捨て軍人になろうと決心したこともあったが、
家庭の都合で除隊の後音楽界に復帰する。

復帰後、再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始していった。
クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
入団試験を受けた事もあるのだが、
「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落とされている。

この頃から、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始める事となった。
1899年、アルトゥール・ニキシュ指揮の
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。

この公演はウジェーヌ・イザイに激賞され成功裏に終わり、
クライスラーの演奏活動はこの頃から軌道に乗り始めるようになる。

1902年にはロンドンデビューを果たし成功。

それに気をよくししばらくの間はイギリスを本拠地として活動する。
同年にはニューヨークで結婚。この頃からレコーディング活動も始める。

1914年に勃発した第一次世界大戦では、
クライスラーは陸軍中尉として召集を受け東部戦線に出征するが重傷を負い、
後送されて間もなく名誉の除隊。

除隊後はニューヨークの自宅に戻り、
療養しながら演奏活動を再開するが、
アメリカにとってはオーストリアは敵国だったため、
活動はあまり軌道に乗らなかった。

大戦終結後はヨーロッパ楽壇に復帰。
1923年には来日を果たしている。
1924年から1934年までベルリンに拠点を置いていたが、
ヒトラーによってナチが政権を獲得すると状況は一変する。

クライスラーは最初、大衆的人気に目を付けられ
同じユダヤ系の指揮者レオ・ブレッヒ
(彼と録音したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、
クライスラーの名盤の一つに数えられる)
ともどもドイツへの残留を要請されるが、
断固拒絶。

1938年、オーストリアがドイツに併合されたのを機に
フランス国籍を取得し、パリに移住した。

1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、
アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、
1943年にはアメリカ国籍を取得。

以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。
アメリカ国籍取得の2年前には交通事故で重傷を負い、
一時は「再起不能」とも伝えられたが奇跡的にカムバック。

放送への出演やリサイタルを断続的に行うも、
負傷の後遺症(視力障害や突発的な記憶喪失など。
音楽的な感覚は奇跡的に障害から逃れた)が尾を引いたこともあり、
1950年に引退。1962年、「20世紀最高のヴァイオリニスト」
と称され惜しまれながら死去した。

クライスラーは、金に困っている若い演奏家に、自分の持っている楽器を気前よく分け与えるなど、陽気で気さくな性格であったという。また、クライスラーは楽器や美術品の蒐集でも知られていた。引退後にそれらのほとんどを手放しているが、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の自筆原稿とエルネスト・ショーソンの「詩曲」の自筆原稿は手放さず、後にアメリカ国会図書館に寄贈された。









主な作品
愛の喜び
愛の悲しみ
ウィーン奇想曲 作品2
美しきロスマリン 作品55の4
中国の太鼓 作品3
オールド・リフレイン
弦楽四重奏曲イ短調
ロマンス 作品4
ジプシーの女
シンコペーション
道化役者のセレナード
ウィーン小行進曲
レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース 作品6
ロマンティックな子守歌 作品9
おもちゃの兵隊の行進曲
祈る女
ベートーヴェンの主題によるロンディーノ
羊飼いのマドリガル
コレッリの主題による変奏曲
オーカッサンとニコレット
ウィーンの民謡(老ステファンシュトゥルムより)
2つのロシア民謡のパラフレーズ(ボルガの舟曳歌、エイコーラと民謡)
ロンドンデリーの歌(アイルランド民謡の編曲)
以下、1935年、作曲者詐称事件(「クライスラーは笑う」参照)で自作と公表した曲
ヴィヴァルディの様式による協奏曲 ハ長調
ディッタースドルフの様式によるスケルツォ
ボッケリーニの様式によるアレグレット
マルティーニの様式によるアンダンティーノ
カルティエの様式によるシャセ
ニッコロ=ポルポラの様式によるメヌエット
プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ
フランクールの様式によるシチリアーノとリゴードン
ガエターノ・プニャーニの様式によるテンポ・ディ・メヌエット
ルクレールの様式によるタンブラン
バッハの様式によるグラーヴェ
クープランの様式によるルイ13世の歌とパヴァーヌ
クープランの様式によるプロヴァンスの朝の歌
クープランの様式による貴婦人
この他、ベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲のカデンツァ、ドヴォルザークのスラヴ舞曲集のヴァイオリン用編曲など多数。ナチ政権下においては、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏する際に、ユダヤ系のクライスラーのカデンツァを使うことは黙認されていた(例えば戦時中のヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル、エーリッヒ・レーン独奏のライヴ録音ではクライスラーのカデンツァが使われている)が、クライスラーの作であることは当然伏せられた。












クライスラーの発言
「私の究極の到達点をスタートラインにして、無限に記録を伸ばした天才」
クライスラーによるヤッシャ・ハイフェッツ評。一種の社交儀礼か本心か、答えは分かれるところである。なお、ハイフェッツの演奏を初めて聴いたときには次のようなことを言っている。

「私も君も、これ(手にしているヴァイオリン)を叩き割ってしまった方がよさそうだ」
「君」とは、ハイフェッツと同じレオポルド・アウアー門下のエフレム・ジンバリストのことである。

「世界的なヴァイオリンの逸材は100年に一度生まれるが、ヨーゼフ・ハシッドは200年に一度の逸材である」
夭折の天才ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシッドに対する絶賛。なぜか、ハイフェッツの発言になるときもある。ハシッドは100年200年はおろか、約4分の1、8分の1である27年しか生きることが出来なかった。










クライスラーは笑う
クライスラーは演奏旅行先にある歴史ある図書館などで埋もれていた作品を発掘し、それを演奏会にかけることを楽しみにしていた。その埋もれた作品をそのまま演奏するのみならず、作品の旋律のごく一部を自作に取り入れ、その自作をしばしば『過去の(忘れられた)作曲家の作品を「再発見」した』と称して演奏・出版した。ある時、その演奏を聴いたある評論家が「作品はすばらしいが、演奏は大したことがない」と斬って捨てた。それを聞いたクライスラーは激怒し(クライスラーは、評論家の批判に対しては滅多に怒らなかったようであるが、この時は琴線に触れる部分があったらしい)、抗議の手紙を評論家に送った。

1935年頃、その手紙を入手したニューヨーク・タイムズの音楽担当記者が、「編曲」と銘打っているのに原曲が世に出てこないことを疑問に思い、当時ウィーンに戻っていたクライスラーにその事を聞いて証拠品の提出を求めた。すると、クライスラーはあっさりと「○×作曲・クライスラー編曲」とある曲はほぼ自作であることを認めたばかりでなく、どの曲のどの部分をどう・どれだけ引用し、どの部分が自分の作曲であるか事細かく答えた。そして、事に及んだ理由としてクライスラーは次のように答えた。

「自作ばかりじゃ聴衆が飽きるし、また自分の名前が冠せられた作品だと他のヴァイオリニストが演奏しにくいだろう?だから、他人の名前を借りたのさ」

この爆弾発言は1935年2月8日のニューヨーク・タイムズで公表され、一大センセーションを巻き起こした。「クライスラーは、騙す気はなかったとしても30数年もの間音楽業界と聴衆を小馬鹿にしていた」と当時はそのことを問題視する向きもあったようだが、クライスラーによってフランス・バロック音楽やヴィヴァルディの再発見のきっかけが作られた事実もまた否めない。「他のヴァイオリニストが演奏しにくい」点に関しては、完全にクライスラーの杞憂に終わり、いまや世界のヴァイオリニストの定番レパートリーとなっている。なお、クライスラー編曲の物のうち、問題になったのはあくまでバロック期などの作品(を騙った作品)であり、古典派・ロマン派以降のものは純粋な編曲である。

他にはオーマンディが、「ラフマニノフの《交響的舞曲》のオーケストラ・ヴァージョンで、弦楽器の運弓(ボウイング)指定をクライスラーが行ったことをラフマニノフ自身に自慢された」との証言を残している。











クライスラーの来日
クライスラーはただ一度、1923年5月に来日している。日本では以前よりビクターレコードの赤盤によってクライスラーの人気が沸騰しており、クライスラーより少し前に来日していたウィリー・ブルメスター(格式ではクライスラーより劣ることはなかった)の公演が、知名度の低さもあいまって霞んでしまうほどであった(ブルメスターは自嘲気味に、「次に来日するのは、自分も赤盤に吹き込んで人気が取れてからだ」と言ったそうである)。帝国劇場で行われたリサイタルではベートーヴェン、ブラームス、J.S.バッハ、ブルッフなどの大曲から「編曲」ものまで多種多様なプログラムを組み、耳が肥え始めた日本の聴衆を唸らせた。
ところで、クライスラーはこの来日の際に、関東大震災の前触れとも言うべき地震に遭遇している。5月6日のこととされているが、公演後も引き続き観光で滞在中だったブルメスターも遭遇しており、「私の幸運の星を信じる」と回顧している(この「幸運」が、果たして災厄から逃れたことに対するものか、稀有の経験に遭遇したことを指すのか、ハッキリしたことは分からない)。なお、帰国の際にはそのブルメスターと一緒にアメリカ行きの船に乗船している。

この頃、すでに出演料などの面ではハイフェッツ(同年9月に来日予定も、関東大震災で11月に繰り下げて来日)に抜かれていたクライスラーではあったが、当時の日本ではハイフェッツよりもクライスラーの方がリサイタルの入場料は高く、クライスラーより前に来日したミッシャ・エルマンやエフレム・ジンバリストと同格であった。

1923年に来日したヴァイオリニストの特等席の料金(金額は当時)
クライスラー:15円
ブルメスター:7円
ハイフェッツ:10円
もっとも、ハイフェッツのリサイタルは大震災直後のこともあり、「特等、一等・・・」とする通常の区分けではなかったので、通常の特等席料金とは別個に考える必要はある。











著作
"Four weeks in the Trenches"(塹壕の四週間)1915年。











参考文献
東京朝日新聞「クライスラーは笑ふ 世界の音楽家を三十年間欺す」1935年2月10付。
ルイス・P・ロックナー(中村稔訳)『フリッツ・クライスラー』白水社、1975年。
岩井宏之「フリッツ・クライスラー 自らの人間性の所産としての音楽によって聴き手の胸にいつまでも懐かしさをとどめる」『続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年。
松本善三『提琴有情 日本のヴァイオリン音楽史』レッスンの友社、1995年。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: オーストリアのヴァイオリニスト | ロマン派の作曲家 | オーストリアの作曲家 | 1875年生 | 1962年没



















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1月29日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5



できごと
1635年 - フランスでアカデミー・フランセーズ設立。

1872年 - 初めて全国の戸籍調査実施(総人口3311万825人)。

1879年 - 日本が「万国電信条約」に加盟。

1886年 - カール・ベンツ、
世界初となるガソリン自動車「ベンツ・パテント・モーターカー」(3輪)
を発明。特許登録証を交付される。

1900年 - 大リーグのアメリカン・リーグがフィラデルフィアで設立総会。
大リーグが2リーグ制に。

1934年 - 官営八幡製鉄所を始めとした製鉄5事業者が合併して、
半官半民の日本製鉄を設立。

1936年 - アメリカ・ニューヨーク州のクーパーズタウンに
「野球殿堂」を開設。ベーブ・ルースら5人が殿堂入り。

1940年 - 大阪府の国鉄西成線(現在の桜島線)安治川口駅附近で
ガソリンカーが脱線転覆し炎上。死者181人(ディーゼルカー導入の契機となる
 詳しくは「西成線列車脱線火災事故」の項を参照)

1944年 - 『中央公論』『改造』の編輯者が検挙される(横浜事件の発端)

1946年 - GHQが琉球列島・小笠原諸島などに対する日本の行政権を停止。

1957年 - 日本の第一次南極予備観測隊が南極 オングル島に上陸。昭和基地と命名。

1960年 - アラビア石油がクウェート沖のカフジ油田を堀り当てる
(戦後初の海外に於ける油田開発)

1964年 - 第9回冬季オリンピック、インスブルック大会開催。2月9日まで。

1968年 - 東京大学医学部自治会がインターン制度の運用と医師法改正をめぐって
無期限スト開始(東大紛争の発端)

1994年 - 小選挙区比例代表並立制導入などの政治改革4法が成立。

1999年 - 島根県浜田市を皮切りに地域振興券の交付を開始。

2002年 - ブッシュ大統領が一般教書演説で
北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と名指し発言。

2005年 - 名鉄空港線の一般旅客向け営業開始に伴い
名鉄で戦後初の大規模な白紙ダイヤ改正をし、列車種別の細分化された



















誕生日
1843年 - ウィリアム・マッキンリー、第25代アメリカ合衆国大統領(+ 1901年)

1853年 - 北里柴三郎、学者(+ 1931年)

1860年 - アントン・チェーホフ、小説家・劇作家(+ 1904年)

1862年 - フレデリック・ディーリアス、作曲家(+ 1934年)

1866年 - ロマン・ロラン、小説家(+ 1944年)

1878年 - 吉野作造、政治学者(+ 1933年)

1927年 - 金井大、俳優(+ 2001年)

1930年 - 大賀典雄、ソニー社長・会長・名誉会長、声楽家・指揮者

1932年 - 加藤正之、声優(+ 1993年)

1943年 - ちばあきお、漫画家(+ 1984年)

1948年 - リンダ・バック、生物学者、2004年ノーベル生理学・医学賞

1948年 - 毛利衛、宇宙飛行士

1950年 - ジョディー・シェクター、F1レーサー

1953年 - テレサ・テン、歌手(+ 1995年)

1954年 - 星野之宣、漫画家

1958年 - 堀井真吾、声優・俳優・ナレーター

1960年 - 渡邊あゆみ、NHKアナウンサー

1962年 - 岡村孝子、シンガーソングライター、元あみん

1965年 - 櫻田淳、政治学者

1966年 - ロマーリオ、ブラジルのサッカー選手

1969年 - hyde、ミュージシャン(L'Arc?en?Ciel)

1970年 - 伊東浩司、陸上選手(短距離走)

1970年 - 黒田有、芸人 (メッセンジャー

1970年 - ヘザー・グラハム、女優

1971年 - 渡辺崇尉、ミュージシャン(MOON CHILD)

1972年 - 濱口優、芸人(よゐこ)

1973年 - ジェイソン・シュミット、アメリカの野球選手

1974年 - 小林幹英、元プロ野球選手・コーチ

1974年 - 中迫剛、格闘家

1974年 - 中山さら、声優

1977年 - 大嶺美香、女優

1977年 - 宝生舞、女優
1980年 - AFRA、ヒューマンビートボクサー
1981年 - 田崎祐一、藤崎マーケット
1985年 - サロメ・ステヴナン、女優
1987年 - 横山可奈子、グラビアアイドル
1987年 - 伊藤彩華、歌手
1988年 - 小松愛、女優
1991年 - 齊藤彩、女優
1997年 - メロディー・チューバック、子役
1998年 - 向井地美音、子役






















忌日
1529年(享禄元年12月20日)- 大内義興、周防国の戦国大名(* 1477年)

1586年(天正13年12月10日)- 羽柴秀勝、戦国武将(* 1568年)

1730年 - ピョートル2世、ロシア帝国ツァーリ(* 1715年)

1820年 - ジョージ3世、イギリス王(* 1738年)

1829年 - ティモシー・ピカリング、第3代アメリカ合衆国国務長官(* 1745年)

1829年 - ポール・バラス、フランス革命期の政治家(* 1755年)

1847年(弘化3年12月13日)- 箕作省吾、地理学者(* 1821年)

1868年(慶応4年1月5日)- 井上源三郎、新選組六番隊長(* 1829年)

1870年 - レオポルド2世、トスカーナ大公(* 1797年)

1883年 - 本多忠民、江戸幕府老中・岡崎藩主(* 1817年)

1899年 - アルフレッド・シスレー、画家(* 1839年)

1906年 - クリスチャン9世、デンマーク王(* 1818年)

1926年 - 古今亭志ん生 (4代目)、落語家(* 1877年)

1933年 - サラ・ティーズデール、詩人(* 1884年)

1934年 - フリッツ・ハーバー、化学者(* 1868年)

1940年 - ネド・ナジ、フェンシング選手(* 1894年)

1941年 - イオアニス・メタクサス、ギリシャ首相(* 1871年)

1941年 - マット・マクグラス、陸上競技選手(* 1878年)

1946年 - 鳩山秀夫、法学者(* 1884年)

1948年 - トミスラフ2世、クロアチア王(* 1900年)

1952年 - 本多静六、林学者(* 1866年)

1956年 - 日野草城、俳人(* 1901年)

1962年 - フリッツ・クライスラー、ヴァイオリニスト・作曲家(* 1875年)

1964年 - アラン・ラッド、俳優(* 1913年)

1965年 - 久原房之助、実業家(* 1869年)

1968年 - 藤田嗣治(レオナルド・フジタ)、洋画家(* 1886年)

1969年 - アレン・ウェルシュ・ダレス、CIA長官(* 1893年)

1970年 - リデル・ハート、軍事史家・戦略思想家(* 1895年)

1979年 - 萩原雄祐、天文学者(* 1897年)

1980年 - ジミー・デュランテ、俳優・コメディアン(* 1893年)

1982年 - 林家彦六、落語家(* 1895年)

1989年 - ハリナ・コノパッカ、陸上競技選手(* 1900年)

1991年 - 井上靖、小説家(* 1907年)

1992年 - ウィリー・ディクスン、
ブルースのシンガーソングライター・ベーシスト・歌手(* 1915年)

1993年 - アンドレ・ザ・ジャイアント、プロレスラー(* 1946年)

1995年 - 服部四郎、言語学者(* 1908年)

1996年 - 土浦亀城、建築家(* 1897年)

1997年 - 野田卯一、建設大臣・経済企画庁長官(* 1903年)

1997年 - 原田憲、政治家(* 1919年)

2000年 - 後藤正夫、政治家(* 1913年)

2004年 - The Water of Life、シンガーソングライター(* 1971年)

2005年 - エフライム・キション、作家(* 1924年)

2006年 - ナム・ジュン・パイク、現代美術家(* 1932年)

2007年 - バーバロ、競走馬(* 2003年)

















記念日・年中行事
人口調査記念日
1872年のこの日に日本初の全国戸籍調査が実施されたことに因む。

世界救らいの日

タウン情報の日
1973年のこの日に日本初の地域情報誌
『ながの情報』が発行されたことに因み、タウン情報全国ネットワークが制定。
posted by clinicayamamoto at 07:02| 東京 不明| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする