2008年05月08日

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年5月8日(木曜日)




「ここをおして」をクリックされてください。




東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科

山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年5月8日(木曜日)



ひなまつりがおわり。
春分の日もおわり。
「4月」が終わりました。
とうとう
「5月」です。
「5月」も「8日」たちました。

「5月」になりました。
「つつじ」が「満開」をすぎました。
「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。


私はだいだい色の
花さく
「やまつつじ」が「大好き」です。
「くさぼけ」もかわいらしく「大好き」
です。
あと「ほぼひと月」で「六月」=「夏」
です。

四季の歩みの春夏秋冬の
「あゆみ」の「はやさ」を感じます。



木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「ため息」がでるほど木々の「若葉」の
「たば」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎える葉束」です。


「若葉」。「新緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は初夏のおとずれを
伝えています。

桜は葉桜から「葉木」。
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。

明らかなる。
「冬から春」とは全く違う
「春から夏」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。




「こいのぼり」と。
「里山をあるきたい」季節です。

けれども
まだ早朝ははだ寒いです。





そらひろくたかくなりけり
さとやまの木々のみどり木
こもれびうけて燃えんとす
みどりの炎
いざあざやかなりけり 


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。





「大きな春みつけた」
から
「春が来て初夏間近い」
「小さな夏みつけた・。」




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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。


「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。

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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。


祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++



平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。5月 3日(土曜日)
5月 5日(月曜日)
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きます。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
++++++++++++++++++++++



★★★


今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。


当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。



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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。


今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。


このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。


麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。


成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です


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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。



「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。


作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。




難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。




「今日は何の日」
「合衆国USA」の大統領であった
そして日本げの原爆投下を命じた
1884年 - ハリー・S・トルーマン、第33代アメリカ合衆国大統領(+ 1972年)
の生誕日です。

トルーマン大統領は日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた
事実がワシントン.ポスト紙にスクープされています。

この原爆の日本への使用については、
後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、
共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)
は全員が反対意見を具申していました。



トルーマン自らは。「核爆弾の威力」を目の当たりにし。

二発目の長崎投下後
「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」
として。

ハリー・S・トルーマンは
3発目以降の使用停止命令を出しました。

トルーマンは公式的な場では
原爆投下を正当化し続けていました。

因みに広島に投下された原子爆弾は
「「合衆国」の実験により。
地上での「爆発」よりも700m上空での
「爆発」が「攻撃力が最大」の計算どおり
「上空」で爆発致しました。

けれども。
「広島原爆」は「核分裂の計算どおりいきませんでした」
「計算破壊力」の「2%」しかだせなかった
とされています。

++++++++++++++++++++++

ハリー・S・トルーマン
(Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、
アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領。
ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。

彼が原子爆弾投下を指示しました。
公民権革命を行った初めての大統領です。

第二次世界大戦の終了、冷
戦の始まり、国連の創成および朝鮮戦争など、
トルーマンの大統領職は非常に多事だった。
トルーマンは「the buck stops here」など
多くの有名な句を創り出した打ち解けた大統領でした。

++++++++++++++++++++++
ハリー・S・トルーマンの生い立ち

1897年ハリー・S・トルーマンは
1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンと
マーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。
トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。
そこで人格形成の時期の大部分を費やしました。

1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、
1906年に父親を手伝うために就農しました。

彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領でした。

++++++++++++++++++++++
ハリー・S・トルーマンは。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、
トルーマンは州兵に参加し士官となり、
フランスで連隊を指揮しました。
戦争終結後インデペンデンスに戻り長年の恋人
ベス・ウォーレスと1919年に結婚しました。
間もなく一人娘のマーガレットをもうけました。

トルーマンは最初の選挙戦に於いて
クー・クラックス・クランの支援を得るため
同団体に加入しました。
しかしクー・クラックス・クランのローマ・カトリックに
対するスタンスを知り、その考えを変更しました。

クー・クラックス・クランへの加入と、
衣類販売業を共同で行った戦友であり
ユダヤ人のエディ・ヤコブセンとの友情を保つことは、
トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートでした。

近年発見された彼の日記には、「ユダヤ人は実に利己的」
といった記述があり、
彼がユダヤ人に対する嫌悪感を持っていたことを
証明しています。

++++++++++++++++++++++
ハリー・S・トルーマンの
政治経歴

1908年1922年にトルーマンは、
カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受け
ジャクソン郡の裁判官に選任されました。
1924年の再選には失敗したが、
1926年には再び選任されました。

郡裁判官としての主な業績の一つは、
道路の改良でした。彼は計画案を作成し、
資金提供のための債券発行を承認しました。

彼が離任するまでにジャクソン郡には
200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していました。
++++++++++++++++++++++

1934年にトム・ペンダーガストは
トルーマンをミズーリの上院議員として
選出するために支援しました。
選挙戦は激烈で、
トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。
ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは
本選挙で勝つことよりも困難なことでした。

上院議員に当選したトルーマンは、
ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動しました。

その後1940年には再選に挑んだが、
すでにペンダーガスト機械は倒産し、
その支援なしで選挙を戦わなければなりませんでした。

再選の後1941年には、
軍事費の不正使用に関して調査報告を行い
「トルーマン委員会」が設立され
ました。
その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、
彼の知名度は全国的に上昇しました。
++++++++++++++++++++++

1944年の大統領選が近づくと共に、
トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上しました。

当初彼は副大統領としての指名を望まなかったが、
ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにしました。

ルーズベルトは先例のない4選を果たし
それに伴いトルーマンは副大統領に就任したが、
ルーズベルトが1945年4月12日に急死し
トルーマンは大統領に昇格しました。

副大統領としての任期は82日間でした。

++++++++++++++++++++++
大統領職
大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。
1945年7月にはポツダム会談に参加した。
26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による
「ポツダム宣言」が発表されたが、
三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物でした。

それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図がありました。

++++++++++++++++++++++

1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていた
トルーマンは、
核の力でソ連を抑止できるという考えがありました。

日本への原爆投下命令は
ポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていました。

共和党の大物の面々が
日本への原爆使用に反対していたこともあって、
トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、
先にスターリンに知らせました。

共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに
原爆投下決定が伝えられたのは
投下の二日前であり、
これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」
と共和党側をさらに激怒させました。

この原爆の日本への使用については、
後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、
共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)
は全員が反対意見を具申しています。

アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し
「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、
私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していました。

++++++++++++++++++++++

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、
アメリカ軍の損失を最小限に止めること、
実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという
目的があったとする一方、
「潰れた洋品店の親父」の様な風貌などという
酷評にさらされた自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、
人種的偏見があったとする説もあります。

トルーマンは二発目の長崎投下後
「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」
として、3発目以降の使用停止命令を出した。

トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていました。
またトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた
事実がワシントン.ポスト紙にスクープされています。

陸軍の完全な機密保持下に行われた
原爆開発は戦後見直しを計られ、
トルーマンは1945年10月に議会に対し
原子力に関する教書を送りました。

それは原子力開発に関する管理体制についての物でした。

翌年の8月には原子力法案が成立し、
原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)
が作られました。

1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。

第二次大戦終結後の共通の敵の不在が、
ソ連とアメリカのお互いの利益の乖離につながることを
悟ったトルーマンは、ソ
連に対して強硬路線をとることを明確にしました。

また、
ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、
前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを
含む代表団を最初の国連総会に派遣しました。

彼の外交知識を疑う者もいたが、
マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、
トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ
連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げました。

また、米軍の統合に関する大統領令を出しました。

++++++++++++++++++++++
1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を
「フェアディール政策」と呼び、
民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を
受け継ぐ立場であることを強調した。
その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを
内容とするものであった。

トルーマンの敗北が広く期待されたが、
彼は猛烈にキャンペーンを行い
共和党候補トマス・E・デューイを破り、
真の大統領としての任期を得、
大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けました。
++++++++++++++++++++++

シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を
「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。
その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名です。

二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの
諸政策を議会に提示したが、
議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。
その後の朝鮮戦争の勃発で、
再び外交政策へ注力せざるを得なかった。

戦況は停滞し、
1950年11月国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは
中国本土への核攻撃を主張したが、
トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任しました。

それはトルーマンの人気に大きく影響した。
朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、
ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、
再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは
次の大統領選不出馬を決定しました。
民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定し
ました。
++++++++++++++++++++++
他の大統領と異なり、
トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで
過ごしませんでした。

ホワイトハウスはその
構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で
崩落の危険が示され、改築を行うことになり、
コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建されました。

再建で造られた新しいバルコニーは
現在トルーマン・バルコニーとして知られています。
++++++++++++++++++++++
ホワイトハウスの改築中、近くの
ブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスと
なりました。

トルーマンが
ブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、
プエルトリコの国家主義者グリセリオ・トレソーラと
オスカー・コラッツオ
が大統領の暗殺を試みました。

しかし、
警察官とシークレット・サービスによって阻まれ
未遂に終わりました。

トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺されました。
銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡しました。

コラッツオは負傷したが身柄を確保され
、裁判後に服役しました。
++++++++++++++++++++++





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おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・






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ハリー・S・トルーマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3



ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領。ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。彼が原子爆弾投下を指示した。公民権革命を行った初めての大統領である。

第二次世界大戦の終了、冷戦の始まり、国連の創成および朝鮮戦争など、トルーマンの大統領職は非常に多事だった。トルーマンは「the buck stops here」など多くの有名な句を創り出した打ち解けた大統領だった。

目次 [非表示]
1 生い立ち
2 政治経歴
3 大統領職
3.1 内閣
4 大統領職後
5 いとしのベス
6 ミドルネームについて
7 関連項目
8 外部リンク



生い立ち

1897年ハリー・S・トルーマンは1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで連隊を指揮した。戦争終結後インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に加入した。しかしクー・クラックス・クランのローマ・カトリックに対するスタンスを知り、その考えを変更した。クー・クラックス・クランへの加入と、衣類販売業を共同で行った戦友でありユダヤ人のエディ・ヤコブセンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。近年発見された彼の日記には、「ユダヤ人は実に利己的」といった記述があり、彼がユダヤ人に対する嫌悪感を持っていたことを証明している。





政治経歴

1908年1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受けジャクソン郡の裁判官に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。郡裁判官としての主な業績の一つは、道路の改良であった。彼は計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。

1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。

再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、彼の知名度は全国的に上昇した。1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初彼は副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズベルトは先例のない4選を果たしそれに伴いトルーマンは副大統領に就任したが、ルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は82日間であった。


大統領職
大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていた。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、「潰れた洋品店の親父」の様な風貌などという酷評にさらされた自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。

第二次大戦終結後の共通の敵の不在が、ソ連とアメリカのお互いの利益の乖離につながることを悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。また、米軍の統合に関する大統領令を出した。

1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。トルーマンの敗北が広く期待されたが、彼は猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。

二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。戦況は停滞し、1950年11月国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは中国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。それはトルーマンの人気に大きく影響した。朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。

他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。

トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの国家主義者グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。





内閣

朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン
職名 氏名 任期

アメリカ合衆国大統領 ハリー・S・トルーマン 1945 - 1953
副大統領 無し 1945 - 1949
アルバン・W・バークリー 1949 - 1953

国務長官 エドワード・ステッティニアス・ジュニア 1945
ジェームズ・F・バーンズ 1945 - 1947
ジョージ・C・マーシャル 1947 - 1949
ディーン・G・アチソン 1949 - 1953
財務長官 ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア 1945
フレデリック・ヴィンソン 1945 - 1946
ジョン・W・スナイダー 1946 - 1953
陸軍長官 ヘンリー・スティムソン 1945
ロバート・ポーター・パターソン 1945-1947
ケネス・クレイボーン・ロイヤル 1947
国防長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1947-1949
ルイス・A・ジョンソン 1949 - 1950
ジョージ・C・マーシャル 1950 - 1951
ロバート・A・ラヴット 1951 - 1953
司法長官 フランシス・ビドル 1945
トム・C・クラーク 1945 - 1949
J・ハワード・マクグラース 1949 - 1952
ジェームズ・P・マクグラネリー 1952 - 1953
郵政公社総裁 フランク・C・ウォーカー 1945
ロバート・E・ヘネガン 1945 - 1947
ジェシー・M・ドナルドソン 1947 - 1953
海軍長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1945 - 1947
内務長官 ハロルド・L・アイクス 1945 - 1946
ジュリウス・A・クルーグ 1946 - 1949
オスカー・L・チャップマン 1949 - 1953
農務長官 クロード・R・ウィッカード 1945
クリントン・P・アンダーソン 1945 - 1948
チャールズ・F・ブラナン 1948 - 1953
商務長官 ヘンリー・A・ウォレス 1945 - 1946
W・アヴェレル・ハリマン 1946 - 1948
チャールズ・W・ソウヤー 1948 - 1953
労働長官 フランシス・パーキンス 1945
ルイス・B・シュウェレンバック 1945 - 1948
モーリス・J・トービン 1948 - 1953









大統領職後

ジョンソン大統領と共にメディケア・ビルの署名を行うトルーマン夫妻、1965年7月30日トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。だが1964年、自宅バスルームでの転倒事故で不幸にも半身不随となってしまい、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となってしまった。1972年12月26日に死去(88歳没)し、28日に大統領図書館の庭に埋葬された。当時アメリカはベトナム戦争とウォーターゲート事件で揺れ動ていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループの「シカゴ」は死を悼み、トルーマンに関する歌を書いた。

ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) は彼にちなんで命名された。










いとしのベス

結婚式にて(1919年6月28日撮影)トルーマンは6歳の時、教会で一人の少女に出会った。後の夫人、エリザベス・バージニア(ベス)・ウォーレスである。彼は会ったとたんに一目惚れをしてしまい「将来結婚する」と心に誓った。しかし「生い立ち」にある如く、家は大変貧しく結婚にこぎつけたのは1919年のことだった。結婚の9年前である1910年から1959年までの49年間、2人は結婚をはさんで「いとしのベス」「いとしのハリー」で始まる手紙をやりとりしていた。その手紙を収録した書簡集『Dear Bess』は、576ページの厚さに及ぶ。

『Dear Bess: the letters from Harry to Bess Truman 1910-1959』 - Robert H. Ferrell(University of MissouriPress)

ミドルネームについて
トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。
フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付ける
ことはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。
トルーマンは、イニシャルが彼の
祖父アンダーソン・シップ・トルーマンと
ソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。
彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、
それにはピリオドを付けないのだとしたが、
すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。
ハリー・S・トルーマン図書館は、
トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、
彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った
多数の明白な例が存在すると公に述べている。






関連項目
トルーマン・ドクトリン
マーシャル・プラン
フェア・ディール
1944年アメリカ合衆国大統領選挙
1948年アメリカ合衆国大統領選挙
ボーイング707
DC-6
ウィキメディア・コモンズには、ハリー・S・トルーマン に関連するマルチメディアがあります。
外部リンク
就任演説.
トルーマン・ドクトリン(1947年3月12日の演説。英語).
トルーマンはどのように彼の名前を綴ったか.
Peter M. Carrozzo on Michael R. Gardner, Harry Truman and Civil Rights: Moral Courage and Political Risks.
ハリー・トルーマンの忘れられた日記 (washingtonpost.com).
An analysis of Harry Truman's personality.
Harry Truman's cabinet.



先代:
ヘンリー・A・ウォレス アメリカ合衆国副大統領
1945 次代:
アルバン・W・バークリー
先代:
フランクリン・ルーズベルト アメリカ合衆国大統領
1945 - 1953 次代:
ドワイト・D・アイゼンハワー
歴代アメリカ合衆国大統領
(関連項目 : アメリカ合衆国大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス)

1789年 : ワシントン
1797年 : J・アダムズ
1801年 : ジェファーソン
1809年 : マディスン
1817年 : モンロー
1825年 : J・Q・アダムズ
1829年 : ジャクソン
1837年 : ヴァン・ビューレン
1841年 : W・ハリソン
1841年 : タイラー
1845年 : ポーク
1849年 : テイラー
1850年 : フィルモア
1853年 : ピアース
1857年 : ブキャナン
1861年 : リンカーン
1865年 : A・ジョンソン
1869年 : グラント
1877年 : ヘイズ
1881年 : ガーフィールド
1881年 : アーサー
1885年 : クリーブランド
1889年 : B・ハリソン
1893年 : クリーブランド
1897年 : マッキンリー
1901年 : T・ルーズベルト
1909年 : タフト
1913年 : ウィルソン
1921年 : ハーディング
1923年 : クーリッジ
1929年 : フーヴァー
1933年 : F・ルーズベルト
1945年 : トルーマン
1953年 : アイゼンハワー
1961年 : ケネディ
1963年 : L・ジョンソン
1969年 : ニクソン
1974年 : フォード
1977年 : カーター
1981年 : レーガン
1989年 : G・H・W・ブッシュ
1993年 : クリントン
2001年 : G・W・ブッシュ

※ 名前の前の年号は、就任年。

歴代アメリカ合衆国副大統領
(関連項目 : アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス)

1789年 : J・アダムズ
1797年 : ジェファーソン
1801年 : バー
1805年 : G・クリントン
1813年 : ゲリー
1817年 : トンプキンズ
1825年 : カルフーン
1833年 : ヴァン・ビューレン
1837年 : R・ジョンソン
1841年 : タイラー

1845年 : ダラス
1849年 : フィルモア
1853年 : キング
1857年 : ブレッキンリッジ
1861年 : ハムリン
1865年 : A・ジョンソン
1869年 : コルファクス
1873年 : ウィルソン
1877年 : ウィーラー
1881年 : アーサー

1885年 : ヘンドリックス
1889年 : モートン
1893年 : スティーブンソン
1897年 : ホーバート
1901年 : T・ルーズベルト
1905年 : フェアバンクス
1909年 : シャーマン
1913年 : マーシャル
1921年 : クーリッジ
1925年 : ドーズ

1929年 : カーティス
1933年 : ガーナー
1941年 : ウォーレス
1945年 : トルーマン
1949年 : バークリー
1953年 : ニクソン
1961年 : L・ジョンソン
1965年 : ハンフリー
1969年 : アグニュー
1973年 : フォード

1974年 : ロックフェラー
1977年 : モンデール
1981年 : G・H・W・ブッシュ
1989年 : クエール
1993年 : ゴア
2001年 : チェイニー

※ 名前の前の年号は、就任年。



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カテゴリ: アメリカ合衆国の大統領 | アメリカ合衆国の副大統領 | ミズーリ州の人物 | 太平洋戦争の人物 | 1884年生 | 1972年没




++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
5月8日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%888%E6%97%A5


できごと
1429年 - ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が、イギリス軍を撃破し、オルレアン市を解放

1605年 - 織田秀信、高野山を追放され善福寺に入る。
高野山ではこの日をもって秀信の死と記す。

1865年(慶応元年4月8日) - 元号が元治から慶応に改元。

1931年 - オーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが破綻。
5月11日に取引が全面停止される。

1942年 - ポートモレスビーを攻略しようとした
日本海軍と連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生、
連合国空母一隻撃沈、一隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止
(海戦は戦術的勝利)(珊瑚海海戦)

1944年 - アメリカ海軍の航空母艦タイコンデロガが就役。

1945年 - フランスでの前日の降伏文書調印を受け、ヨーロッパの西部戦線で停戦。
(VEデイ、ヨーロッパ戦勝記念日)

1945年 - ベルリン郊外のカルルスホルストにて
ゲオルギー・ジューコフ将軍とヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印、
第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)が終結。ソ連による戦勝記念日は翌5月9日となっている。

1954年 - ディエン・ビエン・フー要塞の司令部が陥落、
フェルディナンド・ド・カストリ将軍以下、1万人のフランス兵が捕虜に

1954年 - アジアサッカー連盟設立

1978年 - イタリアの登山家メスナーらが初のエベレスト無酸素登頂に成功。

1980年 - 世界保健機構 (WHO) が天然痘の根絶宣言を行う。

1993年 - 横浜・八景島シーパラダイスオープン。

2001年 - 武富士弘前支店強盗殺人・放火事件発生。2002年3月4日容疑者逮捕。

2002年 - 北朝鮮亡命者が中国瀋陽にある日本国総領事館へ駆け込む事件が発生。

2005年 - ガンバ大阪の前田雅文がJ1通算1万ゴール目を達成。














誕生日
1828年 - アンリ・デュナン、赤十字社創設者(+ 1910年)

1884年 - ハリー・S・トルーマン、第33代アメリカ合衆国大統領(+ 1972年)

1928年 - 澁澤龍彦、小説家(+ 1987年)

1928年 - 宗田理、小説家

1932年 - ソニー・リストン、プロボクサー(+ 1970年)

1934年 - 高坂正堯、政治学者(+ 1996年)

1936年 - 小池一夫、漫画原作者・脚本家

1937年 - トマス・ピンチョン、小説家

1939年 - 近衞忠W、第14代日本赤十字社社長

1944年 - 家城比呂志、振付師

1945年 - キース・ジャレット、ピアニスト

1950年 - 岡田勝、俳優、殺陣師、アクションコーディネーター

1951年 - 大村雅朗、作曲家・アレンジャー(+ 1997年)

1954年 - 吉川美代子、TBSアナウンサー
1955年 - メレス・ゼナウィ、エチオピア首相
1956年 - 水谷修、夜回り先生
1957年 - 福田重男、ジャズピアニスト
1957年 - かたせ梨乃、俳優
1958年 - 坪内祐三、文芸評論家
1959年 - 榊原郁恵、タレント
1959年 - 中原めいこ、シンガーソングライター
1960年 - 天童荒太、小説家
1960年 - フランコ・バレージ、サッカー選手、元イタリア代表
1961年 - 田上明、プロレスラー・元大相撲力士
1962年 - オレステス・デストラーデ、プロ野球選手・西武ライオンズ
1963年 - 池田貴族、ミュージシャン(+ 1999年)
1965年 - さくらももこ、漫画家
1965年 - 稲船敬二、ゲームクリエイター
1967年 - 谷川史子、漫画家
1967年 - 西村由紀江、作曲家、ピアニスト
1968年 - 阿部宏美、アナウンサー
1969年 - 曙太郎、第64代横綱・K-1・プロレス
1973年 - 赤坂晃、俳優、元アイドル(光GENJI)
1973年 - 荒川弘、漫画家
1973年 - 中田有紀、アナウンサー
1973年 - 富岡久貴、プロ野球選手・西武、広島、横浜、楽天
1976年 - 幸村誠、漫画家
1977年 - たかはし智秋、声優、Aice5のメンバー
1978年 - 佐藤敦之、陸上競技選手
1980年 - 星野八千穂、プロ野球選手
1980年 - 吉本亮、プロ野球選手
1982年 - ブアカーオ・ポー.プラムック、ムエタイ選手
1982年 - 新井麻希、アナウンサー
1983年 - NAOTO、ミュージシャン(ORANGE RANGE)
1983年 -石橋佳奈、天気キャスター、タレント
1984年 - 井尚美、グラビアアイドル
1985年 - 宮崎真汐、女優
1985年 - 青木亜希、モデル
1991年 - サクラローレル、競走馬
生年不明 - 河井英里、歌手














忌日
1794年 - アントワーヌ・ラヴォアジエ、化学者(* 1743年)

1873年 - ジョン・スチュアート・ミル、思想家・経済学者(* 1806年)

1880年 - ギュスターヴ・フローベール、小説家(* 1821年)

1891年 - ブラヴァツキー夫人、オカルティスト(* 1831年)

1942年 - 八田與一、土木水利技術者(* 1886年)

1979年 - タルコット・パーソンズ、社会学者(* 1902年)

1982年 - ジル・ヴィルヌーヴ、F1ドライバー(* 1950年)

1985年 - シオドア・スタージョン、SF作家(* 1918年)

1988年 - ロバート・A・ハインライン、SF作家(* 1907年)

1991年 - ルドルフ・ゼルキン、ピアニスト(* 1903年)

1995年 - テレサ・テン、歌手(* 1953年)

1998年 - 鈴木勉、書体デザイナー(* 1949年)

2007年 - 栽弘義、沖縄水産高校野球部監督(* 1941年)

















記念日・年中行事
世界赤十字デー
1948年にストックホルムで開催された第20回赤十字社連盟理事会で決定。

5月8日が赤十字社の創設者、アンリ・デュナンの誕生日であることから。


ゴーヤーの日
1997年より、沖縄県とJA沖縄経済連が
「ゴーヤーの日」を制定。
沖縄県では5月を境にしてゴーヤー(ニガウリ)の出荷量が増える。
posted by clinicayamamoto at 09:02| 東京 晴れ| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする